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言葉の意味・由来

天上天下唯我独尊とは〜読み方とポーズと本当の意味〜

天上天下唯我独尊とは〜読み方とポーズと本当の意味〜

読み方とポーズ

天上天下唯我独尊、という言葉を目にしたことがあるのではないでしょうか。

この言葉は、仏教の開祖である釈迦が、生まれた際に言った言葉として知られ、読み方は、「てんじょうてんげゆいがどくそん」、または、「てんじょうてんがゆいがどくそん」です。

天上天下唯我独尊という言葉は、紀元前6世紀ないし5世紀の4月8日の朝、ルンビニー園の無憂樹の下で花をとろうとして右手をあげた母摩耶夫人の右脇から生まれた釈迦が、生後すぐに七歩歩くと、右手で天を指し、左手で地を指し、「天上天下唯我独尊」と言った、という逸話に由来します。

この際、具体的にどういったポーズが取られていたのか、ということは、釈迦降誕の姿を表した像の誕生仏を見ると分かります。

東大寺 誕生仏 奈良時代

釈迦が、右手で天を、左手で地を指しています。手のひらをやんわりと広げたまま、右手をそっと上げ、左手を力を抜いて下ろしているようなポーズであり、このポーズを取りながら、「天上天下唯我独尊」と唱えた、と考えられていたのでしょう。

また、天上天下唯我独尊という言葉を調べると、この言葉を「唱えた」「言った」「叫んだ」などと動詞が分かれるのですが、この誕生仏の穏やかな表情を見ると、「叫んだ」というより、「唱えた」や「言った」というニュアンスのほうが強いように伺えます。

誕生釈迦仏立像 飛鳥時代 7世紀

一方、別の誕生仏を見ると、右手は指を立てているポーズに見え、表情も若干険しい面持ちとなっています。どうやら、誕生仏には、人差し指を挙げる、人差し指と中指を挙げる、全指を挙げる、といった像があるようです。

このきりっとした顔つきの場合、「唱えた」よりも、もうちょっとはっきりと訴えかけたような印象を抱きます。

果たして、実際は、どういった雰囲気として捉えられていたのでしょうか。

言葉を発した際のより正確な表現としては、「獅子吼ししく」という言葉が使われています。獅子吼とは、仏教の経典でよく使われる表現で、「雄弁を振るうこと、意気盛んな大演説を行うこと」という意味です。

よく知られているように、ブッダは生まれたばかりで北に向かって七歩歩み、「天上天下唯我独尊」と声高らかに獅子吼ししくしたという。

出典 : 生活のなかの仏教用語「出生」|大谷大学

声高らかに獅子吼した(雄弁を振るった)ということは、力強く説くように言った、というイメージなのかもしれません。

本当の意味とは

それでは、「天上天下唯我独尊」とは、一体どういった意味なのでしょうか。

まず先に、後半の「唯我独尊」という四字熟語ですが、「唯我」が「自分ただ一人」という意味で、「独尊」が「自分だけが一人尊い」という意味であることから、「この世で自分ほど偉いものはいない」とうぬぼれること、といった意味合いで捉えられています。

さらに、頭に、「天上天下(天の上の世界と下の世界、すなわち全世界)」がついていることから、天の上も含めて、この全世界で私が一番尊いのだ、という意味として伝わっていることも少なくないようです。

生まれてすぐ、天と地を指し、私はこの世界で一番尊いのだ(天上天下唯我独尊)と叫んだ、とすれば、相当傲慢な人だという印象を受けるかもしれません。

しかし、「天上天下唯我独尊」の本当の意味というのは、こういった順位をつけて私がこの世界で一番尊い、人と比べて私が尊い、というものではなく、この世界にただ一人である私自身がもう尊いのだ、あるいは、自分だけの尊さを自覚することの大切さを説いたものだと考えられています。

人と比べて私が尊い、というのではなく人と比べることのできない私だけの尊さを自覚することが、私たちの大事なつとめである、と教えた言葉です。この自覚をしなさいと教えるのが仏教です。

天上天下唯我独尊|東善寺

この社会には、学歴や家柄、年収や容姿など、様々な「基準」があり、その基準をもとに優劣がつけられ、そのなかで生きているうちに、一人一人の心に劣等感や優越感が植え付けられていきます。

基準が様々にあることはある程度仕方がなく、その基準は、時代や地域によっても異なり、たとえば、幼い頃、男の子のあいだでは、「足が速いとモテる」といった価値観もあったのではないでしょうか。

社会のなかで生活する上で、様々な基準があり、人々は常に比較の対象にさらされますが、しかし、厳密に言えば、この世界において、「自分」とは、他者と比較しようのない、ただ一人の存在です。

足の速さという基準のなかでは順位がつけられても、それは数ある基準のうちの一つであり、一つの視点に過ぎず、「自分」という点で見れば、この世界に、比較のしようがない、優劣のつけようもない、唯一の存在と言えるでしょう。

そして、その唯一の存在である「自分」が、すでに尊いのだ、ということが、天上天下唯我独尊の本当の意味と解釈されています。

「唯我独尊」とは、「唯だ、我、ひとりとして尊し」との意味であり、それは、自分に何かを付与し追加して尊しとするのではない。他と比べて自分のほうが尊いということでもない。天上天下にただ一人の、誰とも代わることのできない人間として、しかも何一つ加える必要もなく、このいのちのままに尊いということの発見である。しかも、釈尊は生誕と同時にこの言葉を語られたと伝えられている。これは、釈尊の教えを聞いた人々が「釈尊は、生涯このことを明らかにせんとして歩まれた方である」という感動を表現したものである。

(中略)

この釈尊の言葉は、人間は何らかの条件によって尊いのではなく、人間の、いのちの尊さは、能力、学歴、財産、地位、健康などの有無を超えて、何一つ付加することなきままで尊い「私」を見出すことの大切さを教える言葉である。

出典 : 生活の中の仏教用語「天上天下唯我独尊」|大谷大学

言葉の響きや漢字の見た目も含め、どこか傲慢さがニュアンスとして伝わってくるためか、宗教の開祖が生まれた直後に放った言葉という逸話のイメージゆえか、またヤンキーの特攻服の印象があるという声もあり、「この世界で私が一番なのだ」といった意味合いで捉えられがちな「天上天下唯我独尊」。

しかし、実際は、むしろ真逆で、そういった順位づけとは違う、誰の代わりでもない、その命のままですでに尊いのだ、という意味の言葉と言えるでしょう。

ちなみに、釈迦が七歩歩いたあとに、天上天下唯我独尊と言ったという逸話。

一体なぜ「七歩」かと言うと、この数字にも意味があり、仏教の教えでは、我々の生命は、六道という迷いの世界を輪廻していると考えられていることから、「七歩」には、「六道の迷いを超える」という意味合いが込められています。

六道とは、六界とも言い、地獄界、餓鬼界、畜生界、修羅界、人間界、天上界という六つの迷界、すなわち苦しみの世界のことを指します。以下、六つの迷界です(参照 :「天上天下唯我独尊」 お釈迦さまの誕生日は4月8日)。

地獄界──最も苦しみの激しい世界
餓鬼界──餓鬼道ともいう。食べ物も飲み物も皆、炎となって食べられず飲まれもせず、飢えと渇きで苦しむ世界
畜生界──犬や猫、動物の世界。弱肉強食の境界で、常に不安におびえている世界
修羅界──絶えない争いのために苦しむ闘争の世界
人間界──苦楽相半ばしている、我々の生きている世界
天上界──六道の中では楽しみの多い世界だが、迷界に違いなく、悲しみもあり寿命もある

釈迦が、「七歩」歩いたというのは、この六つの迷いの世界から一歩出て離れた、ということを意味しています。

以上、仏教の用語である「天上天下唯我独尊」の読み方やポーズ、意味の解説でした。