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雑学

サンタクロースの歴史と起源

サンタクロースの歴史と起源

サンタクロースと言えば、ご存知、クリスマス・イヴの夜に子供たちのためにプレゼントを持って現れる伝説上の人物で、赤い帽子と服装に、白いひげが特徴のおじいさんです。

トナカイの引くソリに乗って飛び、煙突から入ってくることでも知られ、サンタクロースがプレゼントを渡す際には、子供が寝る前につるした靴下のなかに入れる、という習慣もあります。

日本でも「サンタさん」と呼ばれ、子供たちに親しまれている不思議な存在のサンタクロース。

ところで、こうしたサンタクロースの特徴や習慣は、昔から変わらないものなのでしょうか。

サンタクロースの起源は、3〜4世紀のキリスト教の伝説的なギリシア人司教の聖ニコラウスに由来します(「セントニコラウス」は、オランダ語で「シンタクロース」と言い、これがのちに英語でなまって「サンタクロース」と呼ばれるようになります)。

聖ニコラウスは、紀元270年頃に生まれた、ローマ帝国の小さな町で現在のトルコ領アナトリア半島南西部にあるミュラの司教です。

サンタクロースのモデルと言っても、聖ニコラウス自身には、今のような赤い服や白ひげ、太ったおじいさんといった見た目の特徴は持っていません(赤い服は、儀式の際の服がもとになっているという説もあります)。

キリスト教が迫害された時代に、ニコラウスは、頑として教会の教えを守り、数年間投獄されたのち、コンスタンティヌス帝がキリスト教を公認したことから自由の身となります。そして、以降も、ニコラウスの名声は続き、死後も聖人としての崇拝は色褪せることがありませんでした。

正確な没年は分かっていませんが、ニコラウスが亡くなった日は12月6日で、その日は祝福の日「聖ニコラウスの日」とされ、古くは当日かその前夜に子供たちに贈り物を届ける風習があり、今でもその文化が残っている国もあります。

見た目は、サンタクロースと直接関係はしていないニコラウスですが、伝えられている数多くの伝説のなかで、サンタの起源と言われる「子供」にまつわる二つの伝説があります。

一つは、13世紀にジェノヴァ市の大司教が聖人たちの生涯を記した『黄金伝説』に書かれている話です。

近所に住む財産を失った男が、娘たちに売春をさせなければいけないほど困窮し、ニコラウスが、その生活から救った、という伝説です。若き日のニコラウスは、借金を抱え、貧しかったその男に、娘たちが結婚の際に持参できるよう三袋のたくさんの金をこっそりと届けました。

このお金は、窓(煙突という話もあります)から投げ入れ、娘が暖炉横に干していた靴下に入り、そのことから、サンタが煙突から入って暖炉やベットに置かれた靴下にプレゼントを入れる、という特徴や風習にも繋がっていきます。

ジェンティーレ・ダ・ファブリアーノ『3人の娘が居る貧しい家に金を投げ入れる聖ニコラウス』 1425年

また、もう一つの伝説は、古いものでは12世紀の文献にも記されているとされる、ちょっと怖い話です。

ある晩、肉屋の主人が、三人の少年を家に泊めた際、その少年たちを殺し、遺体をバラバラにした後、地下の樽に詰めて塩漬けにします。しかし、その7年後、この肉屋に泊まったニコラウスが、この犯罪に気づき、犠牲者の少年たちを生き返らせた、というものです。

『アンヌ・ド・ブルターニュの大いなる時祷書』(「肉屋から3人の子どもを救う聖ニコラウス」)

上記の二つの伝説が由来となって、聖ニコラウスは、子供たちの守護聖人となり、西暦1200年頃には、魔法を操り、贈り物を届ける存在として知られるようになります。

この西暦1200年から1500年頃までのあいだに、ニコラウスは子供たちに贈り物をもたらす存在としてヨーロッパ各地で定着し、先ほども触れたように、ニコラウスが亡くなった12月6日は祝福の日として扱われ、子供たちが靴下などを準備し、ニコラウスの名前で贈り物がされるようになります。

この守護聖人ニコラウスは、さらにローマ神話のサトゥルヌスや北欧神話のオーディンなど、欧州の神話の影響も受け、白いひげや、空を飛ぶ力なども備えるようになっていきます。

その後、宗教改革などもあり一時聖人たちの崇拝の念が薄れるなど、各地で紆余曲折を経て、様々な特徴の変化(たとえば、子供たちに善行を求め、もし行わなければ鞭で打ったりさらったたりすると警告をするなど、子どもたちを脅かす役割も担ったり、贈り物の届く日がクリスマスに移るなど)をしながら、聖ニコラウスの存在は継続され、受け継がれていきます。

その一つとして、子供たちに贈り物を届ける聖ニコラウス(シンタクロース)への敬愛が続いていたオランダの人々が、新大陸の植民地であるアメリカに、ニコラウスの名声やプレゼントを贈る習慣などを持っていくことになります。

日付に関しては、アメリカに入ってきた当初はニコラウスの命日である12月6日の行事として伝わったものの、途中でクリスマスの日に変わっていった、という話もあります。

ただし、建国まもない頃のアメリカや、また同時期のイングランドでも、クリスマスに贈り物を贈るといった風習はなく、その日は、まるで収穫祭のような趣で、屋外で浴びるように酒を飲んだり、村の人々が激しくドンチャン騒ぎをするといったものでした。

サンタクロースのイメージが再び変化を始めるのは、19世紀前半のことです。クリスマスを家族で祝う行事にしようと、北米の詩人や作家が取り組み、聖ニコラウスの人物像が作り直されていきます。

サンタ像の再構築が進んでいくもととなった具体的な著書や描かれるイメージは概ね以下の通りです。

ワシントン・アーヴィング『ニッカーボッカーのニューヨーク史』(1809年)
聖ニコラウスが、空飛ぶ馬車に乗って家々の屋根の上を飛び回り、パイプを吸っている様子が描かれる。善良な子供たちにはプレゼントを、悪い子には鞭として使う小枝を配った。

作者不詳『子供たちのお友だち』(1821年)
詩のなかで、ニコラウスは、不思議な力でプレゼントを配るという要素は残されたまま、宗教的な特徴は除かれ、(ドイツの贈り物を配る毛むくじゃらのキャラクターの影響から)毛皮が着せられる。同じく善良な子にプレゼントを渡し、木の枝で作った鞭を(親に使わせるために)配ることもあった。馬車を、一頭のトナカイが引いていた。

クレメント・クラーク・ムーア『聖ニコラウスの訪問』(1822年)
別名『クリスマスのまえのばん』と呼ばれる、米国の新聞に載せられた英語詩。もともとは自分の子供たちのために書いたもので、1823年、匿名で出版される。この詩の出版以降、恰幅がよく、トナカイたちがソリを引く、というイメージが広がる。

実際に『聖ニコラウスの訪問(『クリスマスのまえのばん』)』の翻訳を読むと、活き活きとしたサンタクロースの様子が伝わってきます。

それはクリスマスの前の晩、家中で
生き物は、ネズミさえも動かなくなったころ、
靴下は煙突のそばに下げられていて、
サンタクロースが来るのを待っていた。
子供たちはベッドに寝静まって、
頭の中で砂糖入り菓子が踊っていて、
ママは布をかぶっていて、私は帽子をかぶり、
長い夜の眠りについた時に。

突然外の庭で大きな音がしたので、
私はベッドから飛び起きて、何だろうと思い、
窓のそばにいって、雨戸を開けた。
降ったばかりの雪の上に月が
昼間のように光を投げていた。
すると目の前に何と
小さなソリと八頭のトナカイが見えて、
御者が元気なおじいさんだったので、
サンタクロースだとすぐ分かった。

ワシよりも早くトナカイたちは飛んできて
サンタさんは大声で名前を呼んだ。
「そらダッシャー、そらダンサー、それプランサー、ヴィクセン、
行けコメット、行けキューピッド、ドナー、ブリッツェン、
ポーチの上まで、煙突の上まで!
早く走れ、それ走れ、みんな走れ!」
ハリケーンの前で枯葉が舞うように、
何かにぶち当たると、ソリは空へ舞いあがる、
だからトナカイたちは家の屋根の上へ飛んで行った、
おもちゃがいっぱいのソリとサンタクロースを載せて。

私が驚いていると、屋根の上に
トナカイたちがコトコト動いているのが聞こえた。
頭を引っ込めて、ぐるりと回したら
サンタさんがポンと煙突を下りてきた。
サンタさんは頭から足まで、毛皮の服を着て、
それが灰とススにまみれていた。
後ろにはおもちゃを沢山背負って、
包を開く前の行商人のようだった。
目が光っていて、えくぼが幸せそうで、
頬は紅色で、サクランボみたいだった。
小さな口を弓のようにして、
あごには雪のように白いヒゲを生やして、
歯にはパイプをきつくかんで、
煙が花輪のように頭をめぐっていた。

サンタさんの顔は広くて、丸いお腹は
笑う時に震えて、ジェリーが入ったボウルのようだった。
かわいく太っていて、愉快な妖精のようだった。
思わず笑ってしまった私に
目をウィンクして、頭をかしげたので、
何も怖くないとすぐ分かった。
言葉は何も言わなくて、すぐ仕事に取り掛かって、
靴下をいっぱいにして、くるりと身を回して、
そして指を鼻の脇に置いて、
それからうなづいて、煙突を登っていった。

それからソリに飛び乗って、トナカイたちに口笛を吹いて、
枯草が舞うように、飛んでいってしまった。
でも見えなくなる前に、サンタさんが叫ぶのが聞こえた。
「クリスマス、おめでとう!みんな、お休み!」

出典 : 『クリスマスのまえのばん』(wikipedia掲載の翻訳)

特に、この『聖ニコラウスの訪問(『クリスマスのまえのばん』)』の影響は相当大きかったようです。

こうしたサンタに関する一連の著作のために、クリスマスのサンタクロースというイメージ作りが行われ、その文化が浸透していきます。

以降、外見には様々な特徴があったものの、19世紀後半頃になると、今のような、等身大の人間で、赤い服をまとい、トナカイが引くソリに乗るという、いわゆる現代のサンタクロースのイメージに統一されていきます。

サンタトーマス・ナスト『クリスマス絵画集』 1890年

この北米で作られた「サンタクロース」のイメージが、今度はヨーロッパに逆輸入され、(もともと聖ニコラウスを大切にする人たちにとっては、サンタクロースは商業的な要素が強いこともあり、必ずしもサンタクロースを手放しで受け入れている人たちばかりではありませんが)世界各地に浸透していきます。

以上が、ざっくりとしたクリスマスのサンタクロースの起源と歴史です。

次に、日本ではクリスマスやサンタクロースは、一体いつからどのように受け入れられるようになったのでしょうか。

クリスマスやサンタクロースの文化が日本に入ってきたのは明治時代のことです。

当時の日本にとって、キリスト教は、広まることによって生活共同体が破壊されるのではないかと恐れた排除すべき邪教。しかし、同時に欧米列強へのなんとしても追いつこうという精神から、キリスト教の「宗教」の側面は排除しつつも「文化としては排除しない、という姿勢で日本は対応します。

そのため、クリスマスも、キリスト教の一つの文化として、(たとえば日曜日を休日にするのと同じように)宗教的な要素は除いて取り入れられます。

日本初のクリスマス行事としては、戦国時代の1552年に、フランシスコ・ザビエルが行なったという話がありますが、ここでは、明治以降の日本人による近代クリスマスについて紹介したいと思います。

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明治以降、記録に残っているなかでもっとも古い日本人にとってのクリスマスは、明治7年(1874年)の築地居留地内の学校で、クリスチャンの実業家である原胤昭はらたねあきが開いたものでした。

原が、キリスト教に入信したのが同年の1874年で、その感謝のしるしとして、クリスマスを開きたいと思い立ちます。彼は江戸っ子なので、神田明神の祭礼のような感覚でクリスマスも行なったそうです。

浅草で花簪はなかんざしを買い集め、飾り付けたり、落とし幕をこしらえようと、新富座に交渉、座付きの若者たちが提灯を持って手伝ってくれるなど、お祭りのような様相で、日本的なクリスマスとなっていきます。

登場したサンタクロースも、極めて日本的な風貌でした。

裃をつけ、大刀小刀を差し、大森カツラをかぶり、殿様風の身拵えに扮装したサンタクロースを用意した。おもわず「何ですかそれは」と言いたくなるスタイルである。

当夜は、暗誦、対話、唱歌を塾の女生徒(おそらくA六番女学校の生徒)がやってくれ、中村正直(敬宇)ら大勢の人が集まりとても盛会であった、とのことである。

そういうクリスマスであった。

出典 : 明治日本初のクリスマス、サンタクロースは殿様姿で登場した

キリストの降誕祭ということなので、お祭り、という感覚が強かったのでしょう。

その後も、居留地を中心に、外国人の子供向けにくじ引きをして当たったら造花やおもちゃをクリスマスプレゼントに与えるといった祭りや縁日のような雰囲気も持ちながらクリスマスは受け入れられていきます。

その様子には、クリスマスは本来そういうものじゃないのに、といった批判も、敬虔な日本人キリスト教信者から挙がっていたほどだったようです。

とは言え、クリスマスのお祝いという文化が受け入れられていた層は、明治時代前半には、まだ極一部の上流階級家庭や英語が話せるような学識のある人だけに限り、キリスト教徒でない日本人にとっては、クリスマスはあくまで「外国人のお祭り」といった感覚だったと言われています。

ちょうど少し前のハロウィンのような捉え方だったのかもしれません。

クリスマスが、日本人のあいだでぐっと身近なものになっていくのは、明治中期以降のことでした。

新聞(東京朝日新聞)の広告に、明治36年(1903年)頃から「クリスマス」という文字が登場し、まもなくクリスマスは、西洋気分に浸れる日として捉えられていくことになります。

そのクリスマスの需要の転換となった年が、明治39年(1906年)だった、という指摘もあります。

この年から、新聞広告の紙面に於ける「クリスマス」が、「はしゃぎ出す」。その理由として、1904年〜1905年に起こった日露戦争で、ロシアに勝ったことが挙げられると言います。

西洋文化へのコンプレックスが、日露戦争を契機に軽減され、クリスマスを日本的な形として取り入れることへの抵抗が減っていった、と。

1906年になって、戦勝国としての日本が動きだす。

それまで大きくのしかかっていた「西洋文化コンプレックス」が軽減され、クリスマスを日本ふうに組み替えて取り入れていった。

クリスマスの発祥は西洋的宗教の根幹につながる部分であるが、そこは基本、無視する。祭りとして、その破壊的要素に着目し、日本的な祭礼と同じような日とする。そう決めた。

出典 : 日本の「クリスマス馬鹿騒ぎ」の起源は日露戦争の勝利だった!?

空気や気分の面で、戦勝が大きなきっかけとなったということは言えるのかもしれません。

一方、「サンタクロース」の絵が日本で初めて登場したのも、その同時期(少し前ですが)のこと、明治33年(1900年)にキリスト教系の書店兼出版社である教文館から発行された『さんたくろう』という小説に描かれます。

いきなり、「サンタクロース」と言われても人々にとっては馴染みがなかったために、漢字を当てて、「三太九郎」とします。

進藤信義『さんたくろう』表紙

現代で一般的に知られるサンタクロースとは、だいぶ見た目が異なり、痩せ身の渋い顔つきで、ショルダーバッグのような鞄とクリスマスツリーを持ち、背中の籠におもちゃの入ったロバを連れています。

小説のなかでは、次のような手紙も登場します。

五平は峰一の行李こうりの紐を解いて、中から種々な物を取り出しました。それには洋服もあれば靴もある、紙鳶たこもあれば獨樂こまもある、書物もあれば絵本もある、五平は悉皆すっかり取出して峰一が枕頭まくらもとに所狭までに並べまして、それに一枚の紙を附けて置きましたが、それにハう書いてありました。

よく神様の教へを守り、阿父さんを助けて旅人の生命を助けたり、誠に関心な子でありますから、此の贈物を上げます

北國の老爺おやぢ 三太九郎
峰一殿

出典 : 進藤信義『さんたくろう』

五平とは、前年の冬に峰一の一家が救った旅人で、五平が一家に贈り物を届けに訪れる、という物語となっています。

このサンタの登場や、クリスマスの受容に加え、不二家でクリスマスケーキが発売されたのが明治末期の1910年。様々な解釈はあるでしょうが、明治後半頃にかけて人々のあいだでクリスマスが一般に浸透していったことは間違いないでしょう。

さらに、時代が進み、大正時代に入った頃には、日本のサンタクロースも例の赤い服をまとった風貌になり、その存在は子供たちのあいだでも知られるようになります。

子供雑誌『子供之友』12月号 大正3年(1914年)

赤い服に白ひげの太ったおじいさんが、おもちゃを靴下のなかに入れる、もうすっかり、今のサンタクロースと同じ特徴を備えています。

当時、子供たちが欲しかったおもちゃとしては、漫画『のんきな父さん』の首振り人形や、ブリキの飛行船のおもちゃなどが人気だったようです。

こうして日本でクリスマスやサンタクロースが広まり、昭和3年(1928年)の新聞紙上では、「クリスマスは、今や日本の年中行事となり、サンタクロースは立派に日本の子どものものに」とあるほど定着します。

以上、サンタクロースの日本の起源や、広がりの経緯でした。

川瀬巴水川瀬巴水『雪庭のサンタクロース』 1950年

ちなみに、こちらは浮世絵師の川瀬巴水の作品で、日本庭園を歩くサンタクロースの浮世絵です。

浮世絵とサンタクロース、という珍しい組み合わせが面白い作品となっています。

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