中原中也『月夜の浜辺』
中原中也
中原中也は、1907年に山口県で生まれ、1937年に30歳という若さで病によって亡くなる、日本の代表的な近代詩人です。
中原中也の詩集としては、生前に出版された『山羊の歌』と、本人が編集し、友人の小林秀雄に託し、中也の死後、まもなく出版された『在りし日の歌』の二冊があります。
中原中也の詩は、子供の頃の弟の死や、恋人であった長谷川泰子が小林秀雄のもとに去るという別れの経験、そして、最愛の息子の文也が、幼くして亡くなってしまうなど、別れの悲しみを深く纏っています。
その中原中也の代表作の一つとして『月夜の浜辺』という詩があります。
この詩は、1937年の婦人雑誌『新女苑』の2月号で発表され、『在りし日の歌』に収録されます。
中学校の国語の教科書で読んだという人も多いかもしれません。
以下、『月夜の浜辺』の全文になります。
月夜の浜辺
月夜の晩に、ボタンが一つ
波打際に、落ちていた。それを拾って、役立てようと
僕は思ったわけでもないが
なぜだかそれを捨てるに忍びず
僕はそれを、袂に入れた。月夜の晩に、ボタンが一つ
波打際に、落ちていた。それを拾って、役立てようと
僕は思ったわけでもないが
月に向ってそれは抛れず
浪に向ってそれは抛れず
僕はそれを、袂に入れた。月夜の晩に、拾ったボタンは
指先に沁み、心に沁みた。月夜の晩に、拾ったボタンは
どうしてそれが、捨てられようか?出典 : 中原中也『在りし日の歌』
映像的で、不思議と悲しみが伝わってくる、『月夜の浜辺』という叙情的な詩。一体いつ頃に作られたものなのか、詳しいことは分かっていません。
詩が発表される前年、1936年の11月10日に、中也の長男の文也が亡くなり、その後、精神的にも疲弊した中也は、母によって千葉の療養施設に入院させられ、1937年2月に退院します。
詩に込めた思いや心情と、文也の死を結びつける解説もありますが、一方で、『月夜の浜辺』の制作時期は、文也の死よりも前ではないか、といった指摘もあります。
この作品は、一体、どんな想いが込められた詩なのでしょうか。
描かれている情景としては、月夜の晩に、海沿いの浜辺を一人で散歩していると、波打ち際に、一つのボタンが落ちている、ということから始まります。
そのボタンを拾った詩人は、別に役立てるために拾ったわけでもなかったものの、なぜか惹かれ、捨てることができずに、着物の袂に入れます。
月夜の晩に、たまたま拾ったボタンは、深く惹きつけられ、指先に沁み、心に沁みるほど、尊く感じる存在でした。
このボタンは、月に向かっても、波に向かっても、放ることはできずに(旧字の「抛れず(はふれず)」とは、「放り投げることができずに」という意味です)、「どうしてそれが捨てられようか?」と、詩の最後では反語表現も使いながら、そのボタンへの想いを強く表現します。
詩の解説を試みようと思うと、この「ボタン」というのが、なにを意味するのか、といった点で大きく解釈が分かれるかもしれません。
ただ、ボタンとは何か、ということを言語化して解釈したり、感想を論理的に説明することは難しくても、この「感覚」というのは、理解できるのではないでしょうか。
月夜の晩、浜辺を一人で歩いていると、波打ち際に落ちていた一つのボタンを拾う。
そのボタンが、なぜか深く沁み入り、惹きつけられ、どうしても捨てられない。「どうしてそれが、捨てられようか?」となる。
作者にとって、この「ボタン」が何を指すのか、という象徴的な意味を無理やり探さなくても、詩として味わうことは可能でしょう。
それでも、どうしても、ボタンの意味を言語化しようと思ったら、それぞれの「ボタン」があるかもしれません。
たとえば、ある人にとっては、忘れられない記憶なのかもしれません。
たまたま出会った記憶の風景、なんとしても覚えていようと思ったわけではなくとも、なぜか惹きつけられ、記憶に残ったままの光景というのがあります。
そんな記憶の一光景を、ボタンと捉えることもできるかもしれません。
あるいは、自分にとっての天職のようなものが、どうしても捨てられない「ボタン」と言えるのかもしれません。中原中也にとっては、「詩」が、このボタンだったのかもしれません。
そんな風に、それぞれの「ボタン」を考えてみることも、解釈の糸口になりうるでしょう。
いずれにせよ、この『月夜の浜辺』に描かれている情景自体が、とても詩的な世界と言えるのではないでしょうか。
また、中原中也が、多くの別れによって深い悲しみを経験してきたことを思うと、月夜の浜辺で拾った、どうしても捨てられないボタン、という詩の世界に、悲しみのなかの光のような切なさがいっそう痛切に感じられるのではないでしょうか。
以上、中原中也の『月夜の浜辺』の意味と解説でした。