武田信玄の名言
武田信玄の肖像画
武田信玄は、戦国時代の名将であり、甲斐国(現在の山梨県)を治めた戦国大名です。
強力な騎馬軍団を率い、上杉謙信との「川中島の戦い」で激しく争ったことでも知られ、内政では「信玄堤」などの治水事業を行い、民政にも力を入れました。
信玄は、「風林火山」の旗印とともに、今も戦国最強の武将の一人として語り継がれています。
その武田信玄の「名言」とされている言葉を紹介したいと思います。
大将たる者は、家臣に慈悲の心をもって接することが……
〈言葉〉
大将たる者は、家臣に慈悲の心をもって接することが、最も重要である。(『甲陽軍鑑』より)
〈意味〉
大将というのは、家臣に対し、慈しみや哀れみなど慈悲の心を持って接することが、最も重要である。
戦国時代、甲斐国を治めた武田信玄は、幼少の頃から五山僧の岐秀元伯を師として漢学や国学を学び、大名の座についてからも、名僧を招いて講義を開いたそうです。
また、武田信玄は読書家で、『源氏物語』のような文学から兵法書、諸子百家の書物を読破し、高い教養を身につけた知将でもあり、そのため、信玄は武に秀でただけでなく、知性や思いやりも持ち合わせた主君でした。
戦を国境の外で展開したのは、もし国内で行えば田畑が荒らされるなど領民が困るといった理由があり、釜無川の氾濫に備えた信玄堤の整備など、内政にも力を入れました。
加えて、公正さを重要視した武田信玄は、手柄について、しっかりと手柄のある者とない者を把握し、えこひいきはせず、手柄のある者に相応の恩賞とねぎらいの言葉を大将自ら行うことを大切にしたと言います。
こうした背景もあり、信玄は、家臣に対して慈悲の心を持つ重要性を熟知していたのでしょう。
戦いは五分の勝ちをもって上とし、七分を中とし、十を下とす。
〈言葉〉
戦いは五分の勝ちをもって上とし、七分を中とし、十を下とす。
〈意味〉
戦いは、五分の勝ちがいちばんよい。七分勝つと怠りを生み、完全に勝利すると驕り高ぶり、次の大敗の下地になる。
武田信玄が読み込んだ書物に、古代中国の『孫子』の兵法書があり、組織経営や戦略、人間の起用法など、信玄は多くの影響を受けました。
この『孫子』の兵法で理想とされるのは、「戦わずして勝つ」というもので、武田信玄も、情報を収集しながら、外交など相手を引き入れる戦略を採用しました。
神仏も深く敬った信玄が、戦の勝敗に関して語ったのが、「戦いは五分の勝ちをもって上とし、七分を中とし、十を下とす。」、すなわち、「五分の勝ち」が一番よい、ということを意味する名言です。
七分の勝ちでも油断が生まれ、完全に勝利すれば驕りが生じ、次の大敗に繋がる。
戦国武将と言えば、完勝がいいと思いきや、長期的に見た場合には、この「五分の勝ち」がよい、ということなのでしょう。
他にも、勝敗に関し、武田信玄は次のように語っています。
戦いは四十歳以前は勝つように、四十歳からは負けないようにすることだ。
ただし二十歳前後は、自分より小身の敵に対して、負けなければよい。勝ちすぎてはならない。
将来を第一に考えて、気長に対処することが肝要である。
出典 : 楠戸義昭『戦国武将名言録』
この思想も、『孫子』の不敗の思想を踏まえていると考えられています。
人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり
〈言葉〉
人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり
〈意味〉
人は城のようなものであり、石垣のようなものであり、堀のようなものである。情けを持って接すれば味方となり、仇のように扱えば敵となる。
武田信玄は、甲府市にある躑躅ヶ崎館という東西284メートル、南北194メートルという小さな館を拠点としました。
家老たちが、これではあまりに小さく、お粗末ではないか、と言うと、信玄が、「それはもっともだが、国持ちが城に籠って運を開いたことは稀であろう」と述べた、という逸話があります。
信玄が城に力を入れなかった背景には、甲斐国が盆地という「天然の要害」だったことも理由として挙げられるでしょう。
そして、城よりも、この和歌で歌われているように、重要なのは「人」である。人こそが、城となり、石垣となり、堀となる。また、情けをかけることで人は味方になってくれるし、逆に仇のように扱えば敵となる、と信玄は考えていました。
何にも増して、「人」が重要だ、と。
戦において、情報や人の重要性を説いている武田信玄らしい名言と言えるかもしれません。
以上、戦国武将の武田信玄の名言でした。