西行〜道の辺に清水流るる柳陰しばしとてこそ立ちどまりつれ〜意味と解釈
〈原文〉
道の辺に清水流るる柳陰しばしとてこそ立ちどまりつれ
〈現代語訳〉
道のほとりに清水の流れている柳の木陰がある。ほんの少し(休もう)と思って立ち寄ったら、(涼しくて)つい長居をしてしまったよ。
概要
西行は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての日本の武士であり、のちに僧侶となる歌人です。
武士だった頃の名前は、佐藤義清と言い、西行とは、歌をつくる際に使う号です。
生まれた年は元永元年(1118年)で、文治6年(1190年)に、73歳で亡くなります。
西行像(MOA美術館蔵)
西行は、もともと鳥羽上皇の御所を守る優秀な北面の武士でしたが、1140年、まだ若くして出家し、数年ほど京都の鞍馬、東山、嵯峨などで過ごしたのち、一生を通じて全国各地を仏道修行の旅に出ます。
西行が仏道に入った動機としては、親しい友人の死去や高貴な女性への失恋などの説があります。
仏道修行の旅をしながら、数多くの和歌をつくり、藤原俊成と並ぶ、平安時代後期を代表する歌人となります。
この「道の辺に清水流るる柳陰しばしとてこそ立ちどまりつれ」という和歌は、鎌倉時代初期の勅撰和歌集『新古今和歌集』に収録されている歌です。
冒頭の「道の辺」とは、「道のほとり」を意味し、「清水流るる」とは、「きれいな小川の流れる」を指します。「流るる」は、「流る」の連体形です。
次に、その小川の流れる「柳陰」とあります。「柳陰」とは、柳の木陰を指すことから、ある夏、道のほとりに小川が流れ、風も心地よい柳の木陰がある光景が浮かびます。
この木陰で、「しばしとてこそ」、すなわち、「しばらくのあいだだけ(休もう)と思って」と続きます。
最後の「立ちどまりつれ」は、「こそ〜つれ」が係り結びとなり、「(少しと思っていたのに)つい長居をしてしまったよ」という気持ちを表現しています。
さて、全体をもう一度振り返ってみます。
この「道の辺に清水流るる柳陰しばしとてこそ立ちどまりつれ」という和歌を、現代語訳を交えて解釈すると、「道のほとりに、清水の流れている柳の木陰がある。少しばかり休んでいこうと思っていたが、(あまりに涼しいので)つい長居をしてしまったよ。」となります。
西行は、数多くの和歌を『新古今和歌集』に収録され、その数は94首と、『新古今和歌集』の歌人のなかでもっとも多い数となっています。
ちなみに、西行がこの和歌を詠んだとされる柳の場所として、栃木県那須の「遊行柳」が知られています。
遊行柳
のちに、西行を敬愛していた松尾芭蕉が、この遊行柳を訪れ、「田一枚 植ゑて立ち去る 柳かな(『おくのほそ道』)」と一句詠み、さらに、芭蕉を慕った俳人の与謝蕪村もまた、柳散清水涸石処々と漢詩調の句を詠んでいます。
平安末期の歌僧・西行は二十代と六十代の二度、みちのくへ旅したが、遊行柳で詠んだとされる歌が「道のべに清水流るる柳かげしばしとてこそ立ちどまりつれ」『新古今和歌集』に収められている。
江戸元禄期の俳聖・松尾芭蕉が『おくのほそ道』の途次にここで詠んだ句が「田一枚植ゑて立去る柳かな」『ほそ道』の地の文には、芦野の郡守戸部某(こほうなにがし)が「ぜひ見ていってほしい」と旅の前に折々話していたというくだりがある。
この郡守とは芭蕉の俳諧の門人だった芦野の領主・芦野資俊。句の「植ゑて立去」ったのは早乙女か、芭蕉か、はたまた柳の精かとさまざまに想像がふくらむ。
芭蕉の『おくのほそ道』には、この地に西行の「道の辺に清水流るる柳陰しばしとてこそ立ちどまりつれ」で詠まれた柳があり、見てみたいと思っていたが、ようやく柳の下に立つことができた、と記してあります。

