中原中也の死因と息子の死

中原中也の死因と息子の死

詩人の中原中也は、幼い頃に亜郎つぐろうという弟との死別を体験しました。

中也は、6人兄弟の長男で、亜郎は、小学校から帰ってくる中也を、よく家の門の前で待っていたそうです。

5歳の頃の中原中也と、弟の亜郎

亜郎は、脳膜炎で幼くして亡くなり、中也は、この弟との別れの悲しみを歌ったのが、詩人としての「中原中也」の始まりだったと後年語っています。

詩的履歴書 ──── 大正四年の初め頃だったか終頃であったか兎も角寒い朝、その年の正月に亡くなった弟を歌ったのが抑々の最初である。

出典 : 中原中也「詩的履歴書」

弟との死別から月日の経った16歳の頃、中也は、京都で女優志望の年上の女性長谷川はせがわ泰子やすこと出逢い、恋人関係となり、一年ほどの同棲生活の後に、泰子は中原中也の友人であった小林秀雄のもとに去ります。

中也は、泰子にとっては年下であり、身長も150cm程度と小柄で、感情を全身で表すような生粋の「詩人」であったのに対し、小林秀雄は年上で理知的な「評論家」でした。

泰子からすれば、中也にはなかった大人の側面を小林に求めたのかもしれません。

このときの恋人との別れも、中也の心をえぐるように苦しめました。

その痛切な想いについて、中也は「自己を失った」と日記のなかで表現しています。中也は、言葉によって、崩れ落ちる自己を保たなければならず、この二度目の喪失の体験が、いっそう深く彼を詩人にしていきます。

俺は、棄てられたのだ! 郊外の道が、シツトリ夜露に湿つてゐた。郊外電車の轍の音が、暗い、遠くの森の方でしてゐた。私は身慄ひした。停車場はそれから近くだつたのだが、とても直ぐ電車になぞ乗る気にはなれなかつたので、ともかく私は次の駅まで、開墾されたばかりの、野の中の道を歩くことにした。

(中略)

私は苦しかつた。そして段々人嫌ひになつて行くのであつた。世界は次第に狭くなつて、やがては私を搾め殺しさうだつた。だが私は生きたかつた。生きたかつた!

出典 : 中原中也『我が生活』

中也に与えられた悲しみの試練は、これだけでは終わりませんでした。

1931年には、4歳下の弟の恰三こうぞうが肺結核で死去(この3年前には、父の謙助も亡くなっています)。

それから数年後、中也は、母親の勧めでお見合い結婚をし、一人の男の子を授かりました。中也は、息子に文也ふみやという名前をつけました。

1934年10月、長男・中原文也の誕生です。

中也は、息子文也をとても可愛がっていました。結婚し、子供にも恵まれ、悲しみを生きてきた中也が、ようやく幸せな気持ちに安住できたひとときでした。

中也と息子の文也 1935年

真っさらな眼差しを持った詩人としても、子供の成長はさぞ神秘的に映ったことでしょう。

文学について語られることが多かった日記にも、文也の名前が姿を現わすようになります。

9月13日(1935年)

朝から子供の守。夜八時半子供就寝の後初めて自由な身体となる。女房が早く寝て早く起きろと盛んにこぼす。

7月24日(1936年)

文也も詩が好きになればいいが。二代がゝりなら可なりなことが出来よう。俺の蔵書は、売らぬこと。それには色々と書き込みがあるし、何かと便利だ。──── 迷いは俺がサンザやったんだ。俺の蔵書は少ないけれど、俺は今日迄に五六千冊は読んでいる。色んなものを読んだのだ。しかし。それが役立ったとしても、それを読んだだけの時間をもっとノンビリ呼吸していたら、もっと得をしたかも知れぬのだ。

8月14日

文也漸く舌が廻り出す。一ヶ月に二つ位ずつ単語が増える。来年の春頃には、簡単な話が出来るだろう。

出典 : 中原中也著 吉田凞生編『汚れつちまつた悲しみに  −  私の人生観』

しかし、こうした中也の我が子との平穏な日々も、決して長くは続きませんでした。

せっかく手にした束の間の幸せも、あっけなく中也の手もとから奪い去られます。

それは、文也が生を受け、わずか二年後のこと。

11月10日(1936年)

午前九時二十分文也逝去

出典 : 中原中也著 吉田凞生編『汚れつちまつた悲しみに  −  私の人生観』

死因は、小児結核でした。葬儀で中也は、文也の遺体を抱きしめたまま離さなかったそうです。

中也の日記には、「文也の一生」と付された文章が残っています。たった3ページほどの文章量ながら、息子と過ごした大切な記憶と記録とが丹念に綴られています。

また、亡き文也とのささやかな日常を綴った詩も残しています。

「また来ん春…….」

また来ん春と人は云う
しかし私は辛いのだ
春が来たって何になろ
あの子が返って来るじゃない

おもえば今年の五月には
おまえを抱いて動物園
象を見せても猫(にゃあ)といい
鳥を見せても猫(にゃあ)だった

最後に見せた鹿だけは
角によっぽど惹かれてか
何とも云わず 眺めてた

ほんにおまえもあの時は
此の世の光のただ中に
立って眺めていたっけが……

出典 : 中原中也『在りし日の歌』

最愛の息子の死の衝撃と、不慣れな葬儀の準備や応対などで、ただでさえ繊細な中也は、すっかり心身をすり減らし、激しい神経衰弱に陥ります。

翌月に、次男の愛雅よしまさが生まれますが、中也の悲しみは癒えず、幻聴や幼児退行のような言動も見られ、心配した母親によって、1937年、千葉の精神病院(中村古峡療養所)に入院させられます。

入院先で見た患者たちのむきだしの狂気に、いっそう気を病んだ中也は、ようやく退院が決まると、文也のことを思い出さないように東京を離れ、鎌倉に転居、しかし、退院後も体調は回復せず、徐々に衰弱していきます。

体調が悪化した中也は、10月5日に鎌倉駅前の広場で倒れ、文也の死から約一年後、1937年10月22日、我が子を追うように、中也も30歳の若さで亡くなります。

中原中也の死因は、急性脳膜炎(現在は、結核性の脳膜炎と考えられています)でした。

死の直前、中也は、母の指をたばこを吸うときのように自分の指ではさんで二度吸い、「僕は本当は孝行者だったんですよ」と告げ、「今にわかるときが来ますよ」と加え、数秒置き、「本当は孝行者だったんですよ」と言った(「最後の声は正気の声だった」)と、弟の思郎さんは書き残しています。

また、次男の愛雅も、中也の死から3ヶ月後に病死します。