中原中也『朝の歌』
中原中也は、1907年に山口県で生まれ、1937年に若くして病で亡くなった近代日本を代表する詩人です。
生涯で350篇以上の詩を残し、詩集としては、生前に出された『山羊の歌』と、中原中也本人が編集し、友人で評論家の小林秀雄に託し、中也の死後、まもなく出版された、『在りし日の歌』の二冊があります。
この詩集のうち、『山羊の歌』の第一章に収録された詩に、初期の作品である『朝の歌』があります。
朝の歌
天井に 朱きいろいで
戸の隙を 洩れ入る光、
鄙びたる 軍楽の憶ひ
手にてなす なにごともなし。小鳥らの うたはきこえず
空は今日 はなだ色らし、
倦んじてし 人のこころを
諫めする なにものもなし。樹脂の香に 朝は悩まし
うしなひし さまざまのゆめ、
森竝は 風に鳴るかなひろごりて たひらかの空、
土手づたひ きえてゆくかな
うつくしき さまざまの夢。出典 : 中原中也『中原中也詩集』
この『朝の歌』は、1926年に書かれた詩で、中原中也の初期の代表作として知られています。また、中也自身、この詩によって、「ほぼ方針立つ」と、詩人としての方向性を確かなものにしたようです。
大正十五年五月、「朝の歌」を書く。七月頃小林に見せる。それが東京に来て詩を人に見せる最初。つまり「朝の歌」にてほぼ方針立つ。方針は立ったが、たった十四行書くために、こんなに手数がかかるのではとガッカリす。
出典 : 中原中也「詩的履歴書」
この『朝の歌』を見せた小林というのは、先にも触れた小林秀雄です。
中也と小林のあいだには、中也の恋人だった長谷川泰子が小林のもとに去った、という恋敵の関係があり、去っていった翌年に、その小林に詩人としての方針が立った重要な新作を見せているということから見ても、一言では言い尽くせない不思議な三角関係が築かれていたことが分かります。
この詩が、最初に活字になったのは、音楽家の諸井三郎を中心とする音楽集団の機関誌『スルヤ』で、中原中也にとっては、これが対外的に詩が公表された最初だったようです。中也は、1927年、友人の紹介で諸井三郎と出会い、原稿の束を渡すと、好きな詩を選んで曲をつけてほしい、と依頼します。
中原中也 朝の歌 作曲 諸井三郎
歌詞として曲がついていたこともあった影響か、『朝の歌』が詩集に収録される際には、文字の上げ下げ(偶数行の頭が二文字空いています)など、リズムが視覚的にも表現されている形となっています。
この『朝の歌』の音楽的な特徴について、中原中也の研究者でもあり、詩人の佐々木幹郎氏は、次のように解説しています。
最も大きな違いは各連偶数行の字下げだろう。このことによって、見えない詩のリズムが見えてくる。行頭から文字を下げるというのは、前の詩行を受けて、息継ぎの前を多くとるという意味と、前行とは別の音程で読んでほしい、という意味合いも兼ねている。まるで、楽譜のような趣を持ち、文字の配置による空間全体がデザインとなる。
出典 : 佐々木幹郎『中原中也 沈黙の音楽』
この『朝の歌』は、音楽的な要素が強く出た詩とも言えるでしょう。
また、作品全体の雰囲気を見ると、まず、天井に朱い色の光を見つけ、その色が、戸の隙を洩れ入ってくる日の光であることに気づきます。
鄙びるとは、「田舎風を帯びた、田舎くさい」といった意味で、軍楽とは、軍隊の音楽や軍の楽隊の演奏を指します。ただし、この『朝の歌』に出てくる「軍楽」は、軍隊の音楽のことではなく、「ジンタ」ではないか、と佐々木氏は指摘しています。
ジンタ(ヂンタ)とは
明治・大正期の職業的吹奏楽隊、またはその吹奏楽の俗称。1887年(明治20)に軍楽隊出身者を中心にした「東京市中音楽隊」が開業したのをはじめ、各地に市中音楽隊ができ、園遊会など各種の催しに利用された。
のち洋楽の大衆化とともにその需要も増え、明治後期には広告宣伝や曲馬団(サーカス)などの客寄せにも幅広く使われるようになり、さらに活動写真(映画)の伴奏音楽も担当するようになった。(コトバンク)
戸の隙から洩れ入る光をぼんやりと眺め、遠く懐かしい軍楽の音色がふいに蘇ってくる朝、「手にてなす なにごともなし」、手にするものはなにもない、という倦怠感に満ちています。
はなだ色というのは、漢字で「縹色」と書き、薄い藍色のような色です。今日の空は、はなだ色なのだろう、ということを思っているのでしょう。
そして、うんざりしているような心を、諌める存在もなにもない、といった意味の言葉が続きます。
そんな風に、ただ一人きりの人間が、ぼんやりと朝を迎えている情景や心情が表現されています。
その後、家の雨戸による樹脂の香りがし、それから、失ってしまった「さまざまのゆめ」は、遠く風に揺れて木々が鳴っている森竝のイメージとともに描かれています。
ひろごりて、というのは、「広がる」という意味で、失われてしまった「さまざまのゆめ」が、風に乗って木々を揺らし、また広大な空や土手伝いに消えてゆく。そのことによって、「うつくしき さまざまの夢」に昇華していく、そんな心情が表現されているのでしょう。
ちなみに、若い頃に中原中也と交流のあった音楽評論家の吉田秀和は、『朝の歌』について、もっとも好きな詩としてこの詩を挙げ、ここに、彼の「動いてはいけない、あせってはいけない」という倫理の掟をみる、と指摘しています。
(中原中也の『朝の歌』は)私が最も早く知り、今でも最も好きな彼の詩のひとつであるが、この詩は諸井三郎が作曲している。私はよく彼の所に泊り、また彼につれてゆかれた人の所に泊り、また彼も何度か私の宿に泊ったものだが(阿部先生の所は、奥さんのお産で、私は翌年の一月にはもう出なければならなかった)、そんなおりに私は、何度か、彼のこの歌を歌うのをきいた。
天井に 朱きいろいで
戸の隙を 洩れ入れる光、
鄙びたる 軍楽の憶ひ
手にてなす なにごともなし。ひろごりて たひらかの空、
土手づたひ きえてゆくかな
うつくしき さまざまの夢。私は、いつか文字通り、雨戸の隙を洩れて入ってくる陽の光が天井にうつる影をみながら、彼の声をきいていたこともある。中原はだみ声だけれど、耳がよくて、拍子はずれではなかったし、ニオクターヴ声が出るといって自慢していた。
小鳥らの うたはきこえず
空は今日 はなだ色らし、
樹脂の香に 朝は悩まし
うしなひし さまざまのゆめ、
森並は 風に鳴るかな天井にゆれている光をみながら彼の歌をきいていると、私には、小鳥と空、森の香りと走ってゆく風が、自分の心中にも、ひとつにとけあってゆくのを感じた。そうして、この倦んじた心、手にてなす何ごとも知らない心。私は、そこに、泰西象徴派の詩人のスプリーンより、中原自身の倫理の掟をみるのだった。動いてはいけない。あせってはいけない。
