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日本近現代文学

自分の感受性くらい自分で守ればかものよ 茨木のり子

自分の感受性くらい自分で守ればかものよ 茨木のり子

国語の教科書に、戦争への憤りを書いた『わたしが一番きれいだったとき』という詩が掲載される、戦後を代表する女性詩人の茨木のり子さん。

茨木のり子さんは、1926年(大正15年)生まれで、青春時代に戦争を経験し、戦後、1949年に結婚。その後、茨木のり子というペンネームで活動を始めます(本名は三浦のり子、旧姓宮崎)。

1975年に、夫が癌で死去(夫との死別による日々の悲しみを綴った詩は、生前は公開されることがなく、死後に『歳月』として出版されます)。

以後も、詩作を続け、2006年、茨木のり子さんは、79歳で亡くなります。死因はくも膜下出血でした。東京都西東京市の自宅で、夫の死後、長らく一人暮らしをしていた茨木さんでしたが、親戚が訪ねてきた際に、寝室で亡くなっているところを発見されたそうです。

詩人、茨木のり子

茨木のり子さんの詩の特徴は、一つ一つの言葉は意味としては分かりやすく平易で、幅広い世代に受け入れやすいこと。また、「個」というものを際立たせている、という点が挙げられるでしょう。

たとえば、茨木のり子さんの代表作の一つとして、多くの人々に知られている詩が、詩集のタイトルにもなっている、『自分の感受性くらい』という作品です。

自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ

この一節が、印象に残っている、心に響いた、という人も少なくないのではないでしょうか。がつんと気合を入れられたような、あるいは、ふっと我に返るような、そんな力強い言葉です。

より大きな存在や時代、周囲、そういったものに流されずに、孤独を抱えながらも、「自分」というものをしっかりと持つことの大事さを、詩を通して訴えかけています。

よく知られた「自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ」という一節は、詩の最後の部分で、全文は、以下の通りとなっています。

『自分の感受性くらい』

ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて

気難しくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか

苛立つのを
近親のせいにはするな
なにもかも下手だったのはわたくし

初心消えかかるのを
暮らしのせいにはするな
そもそもが ひよわな志にすぎなかった

駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄

自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ

詩を通して読んでも、必ずしも難しい表現になっているわけではなく、部分的に見れば、特別解説が必要な詩ではありません。

しかし、だからこそ、その簡素さゆえに、一つ一つの言葉が、深く、重く、すっと響いてきます。

全てのことを他者のせいにしていたら、暮らしのせい、時代のせいにしていたら、一時的には楽であっても、それは自分自身の芯の部分も譲り渡していることになります。みんなが言っているから、誰かが言っているから、というのではなく、「自分」がどう感じているのか、嫌いなものは嫌い、おかしいものはおかしい、という自分の「感受性」だけは、決して委ねてはいけない、という想いが込められています。

茨木のり子さんが、『自分の感受性くらい』を書いたのは1975年、48歳の頃のことでした。

これは、誰かに向けた叱咤の言葉ではなく、むしろ自分自身「弱い人間」でもあり、詩作は自分への叱咤激励の意味で書いている、ということを生前に語っています。

「『あなたの詩を読むと、非常に励まされる』、『勇気をもらった』ってお手紙をよく未知のかたからいただくんですね。私自身は、人を励ますなんて、そんなおこがましい気持ちで詩を書いているわけではないのですね。

結局、誰しもそうだと思うんですが、自分は強い人間と思うときと、弱い人間と思うときとありますでしょ。私なんか自分を本当に弱い人間と思うんですね。自分を叱咤激励するっていう意味で詩を書いているってこともあるんですね。(茨木のり子)」

出典 :「自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ」詩人・茨木のり子 現代に響く魅力

自分の「感受性」を自分で守る、という考え方の根幹には、茨木のり子さんが青春時代に通った戦争の経験があります。

皆でいっせいに戦争に進み、敗戦したら、今度は手のひらを返したように民主主義に熱狂していく。その光景に、茨木さんは、怒りや落胆に近いような感情を抱いたのでしょう。

茨木のり子「今まで『こうだ』というのがひっくり返ったわけですから。そういうなかで『何だ』っていう感じがあって」

取材者「本当に自分の目で見て、自分の頭で考えていたら」

茨木のり子「それがいちばん間違いが少ないということを、私戦争中に悟ったんですよね」

出典 : 茨木のり子 “個”として美しく~発見された肉声~

茨木のり子さんが繰り返し語っていたことは、「社会が一つの方向に進む時に個人が無批判に同調していく恐ろしさ」でした。

世の中の流れや空気というものが、一つの方向に進み、個人の考えや感受性が消えていく。一つの方向だけが正しいとされ、個人の「おかしい」のではないか、もしかしたら違うのではないか、という違和感が生じなくなる。感受性が麻痺する。あるいは、生じても、声に出せなくなる。

こういったことに対する恐怖や不安が、戦争の経験も踏まえて、茨木のり子さんにとって大きな思想の軸になっていったのでしょう。

だからこそ、自分の目で見る、自分の頭で考える、自分で感じていることを、なるべく素直に捉える、毒されないように守る、ということが大事であり、「それがいちばん間違いが少ない」という思いから、「自分の感受性くらい 自分で守れ」という一節が生まれたようです。

茨木のり子さんの評伝を書いた、ノンフィクション作家の後藤正治さんは、茨木さんの詩に関して、次のように解説しています。

自分自身のいちばん正直な価値観にのっとって生きたらいいんだろうというのは、茨木さんのメッセージだと思うんですね。『あっ、私自身でいいんだ』というか、逆に言えば『あなた自身であれ』というかね。そういうメッセージ性を受け取ると、非常に何かエンカレッジしてもらえる(励ましてもらえる)というんでしょうか。だから茨木さんの読者が広い層にわたっているのかなとも思いましたね。

出典 : 茨木のり子 “個”として美しく~発見された肉声~

見失ってはいけない、捨て去ってはいけない、自分自身でいい、自分自身であれ、というメッセージ。

茨木のり子さんの生前最後の詩集は、1999年出版の『りかからず』です。その表題作となった『倚りかからず』という詩も、まさに、茨木のり子さんが語ってきた、「自分」を手放さないことの大切さを歌った詩になっています。

以下、『寄りかからず』の全文です。

『倚りかからず』

もはや
できあいの思想には倚りかかりたくない
もはや
できあいの宗教には倚りかかりたくない
もはや
できあいの学問には倚りかかりたくない
もはや
いかなる権威にも倚りかかりたくはない
ながく生きて
心底学んだのはそれぐらい
じぶんの耳目
じぶんの二本足のみで立っていて
なに不都合のことやある

倚りかかるとすれば
それは
椅子の背もたれだけ

この詩も、『自分の感受性くらい』と同じく、一つ一つの言葉の意味としては難しくはありませんが、茨木さんの人生の根幹が真っ直ぐに綴られています。

できあいの思想、できあいの宗教、できあいの学問、あるいは、いかなる権威にも寄りかかりたくはない。長い人生のなかで、心の底から学んだことは、それぐらい、と。それはすなわち、「自分の感受性を自分で守れ」ということでしょう。

そして、最後に、長い人生を思い返して、ふっと息のつくような一節、「倚りかかるとすれば それは 椅子の背もたれだけ」。彼女が73歳のときの作品。茨木さんらしい、芯のある、かっこいい詩です。

茨木さんは、予め遺書を残していたそうで、その遺書の中身もまた、ぴしっとした終わり方になっています。

これは生前に書き置くものです。
私の意志で、葬儀・お別れ会は何もいたしません。
この家も当分の間、無人となりますゆえ、弔慰の品はお花を含め、一切お送り下さいませんように。
返送の無礼を重ねるだけと存じますので。
「あの人も逝ったか」と一瞬、たったの一瞬思い出して下されば、それで十分でございます。
あなたさまから頂いた長年にわたるあたたかなおつきあいは、見えざる宝石のように、私の胸にしまわれ、光芒を放ち、私の人生をどれほど豊かにして下さいましたことか・・・。
深い感謝を捧げつつ、お別れの言葉に代えさせて頂きます。

ありがとうございました。