夏目漱石『草枕』の冒頭
〈原著〉
山路を登りながら、こう考えた。
智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。
〈英語訳〉
Going up a mountain track, I fell to thinking. Approach everything rationally, and you become harsh. Pole along in the stream of emotions, and you will be swept away by the current. Give free rein to your desires, and you become uncomfortably confined. It is not a very agreeable place to live, this world of ours.
概要と解説
小説『草枕』は、1906年(明治39年)に夏目漱石が発表し、特に冒頭文が有名で、漱石初期の名作として評価の高い作品の一つです。
草枕の舞台は、「那古井温泉」(熊本県玉名市小天温泉がモデル)。主人公は30歳の洋画家で、山中の温泉宿に宿泊し、その宿で若奥様の那美と出会います。
彼女は、画家が今まで出会った女性のなかで、もっとも美しい所作をする女性でした。あるとき、那美から自分の絵を描いて欲しいと頼まれるものの、なぜか主人公は、「足りないところがある」と断ります。
その「足りないところ」とは一体何か、というのが、草枕の大きな主要テーマとなります。
この小説は、西洋近代化に対する問題意識や東洋の芸術論も語られた一冊で、ジブリの宮崎駿監督も、この夏目漱石の『草枕』を何度も繰り返し読んできた、というほど大好きな本として挙げています。
この冒頭文は、「山道を登りながら考えた。理性ばかりでは他人と衝突し、情に流されれば足元をすくわれる。意地を通しても窮屈で、全く人の世の中というのは住みにくいものだ」という意味になります。
ただし、これだけでは、「この世界は嫌だな、生きていたくないな」という、ずいぶんと厭世的な始まりになりますが、この冒頭文には続きがあり、以下が、その続きの原文です。
住みにくさが高(こう)じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画(え)が出来る。
人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三軒両隣にちらちらするただの人である。ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。
越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、寛容(くつろげ)て、束の間の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。ここに詩人という天職が出来て、ここに画家という使命が降(くだ)る。あらゆる芸術の士は人の世を長閑にし、人の心を豊かにするが故に尊(たっと)い。
もうどこへも行く場所がないと悟ったときに、詩や絵が生まれる。
結局、どこに越しても住みづらく、人が作った世界でない場所に移っても、もっと住みづらい「人でなしの国」があるばかりだろう。
それなら、この住みづらい世の中を、束の間でも住みやすい空間にする以外になく、その使命を担っているのが、詩人であり画家なのだ、と漱石は語るのです。
それゆえに尊いのだ、と。
ちなみに、英語訳はアラン・ターニーというイギリスの翻訳家が行っているものがあります。
特に、「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。」の部分は、以下の通りに英語訳されています。
Approach everything rationally, and you become harsh. Pole along in the stream of emotions, and you will be swept away by the current. Give free rein to your desires, and you become uncomfortably confined.
原文と比べると、多少説明的で少し長めになっている印象を受けます。
また、『草枕』の英語版のタイトルは、『The Three-Cornered World』で、直訳すれば、「三角の世界」を意味します。
これは、『草枕』の一節、「して見ると四角な世界から常識と名のつく、一角を磨滅して、三角のうちに住むのを芸術家と呼んでもよかろう。」に由来するようです。