「冬はつとめて」の意味とは
日本古典の代表的な文学作品に、清少納言が平安時代に書いた随筆『枕草子』があります。
清少納言は、平安時代中期の女流作家、歌人で、『枕草子』の作者(本名は清原諾子)として知られています。
誕生日や、死没の日付は分かっていませんが、966年頃に生まれ、1025年頃に亡くなったと考えられています。
この『枕草子』は、情緒的な風景を描写した「春はあけぼの」から始まる冒頭の文章が有名です。
春、夏、秋、冬のそれぞれの季節ごとに、素晴らしい、趣があってよい、という時間帯を描いていきます。

たとえば、春はあけぼの。
あけぼのとは、夜がほのぼのと明ける、夜明け頃のことを意味します。
春は、夜がほのぼのと明けようとする頃がよい、と清少納言は書きます。
次に、夏は夜。
これは文字通り、夜のこと。満月のときもよいし、新月で真っ暗な闇のなかでも、蛍が飛んでいるのがよい、と『枕草子』にはあります。
続いて、秋は夕暮れ。
これも、そのままの意味となります。夕暮れどきの秋が情緒的で素敵なのは、現代人の感覚と変わらないのではないでしょうか。
最後は、冬はつとめて。
春、夏、秋と比べ、冬に使われる「つとめて」という言葉が、一見すると見慣れず、意味が分からない、という人も多いかもしれません。
この「つとめて」という言葉は、漢字にすると「夙めて」となります。
この漢字は、「夙に」といった使い方をし、「ずっと以前から、早くから」「若い頃から」「朝早くに」という意味になります(音読みの場合、夙となります)。
例文としては、「彼は夙にその名を世に知られていた(彼は若い頃からその名を世に知られていた)」などと使いますが、現代では、あまり使われることはありません。
さて、この『枕草子』で使用される「夙めて」という表現ですが、この場合、「早朝」という意味になります。
そのため、「冬はつとめて」というのは、「冬は早朝がよい」という風になります。
以下は、『枕草子』冒頭の「冬」の部分の原文と現代語訳になります。
冬は、つとめて。雪の降りたるはいふべきにもあらず。霜のいと白きも、またさらでも、いと寒きに、火など急ぎ熾して、炭もて渡るも、いとつきづきし。昼になりて、ぬるくゆるびもていけば、火桶の火も、白き灰がちになりて、わろし。
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冬は、早朝(がよい)。雪の降っている朝は言うまでもない。霜が降りてとても白いのも、またそうでなくても、たいへん寒いのに、火などを急いでつけ、炭をもって運びまわるのも、とても似つかわしい。昼になり、寒さがゆるくなってくると、火桶の炭火も、白い灰が多くなっているのは見た目がよくない。(現代語訳)
出典 : 清少納言『枕草子』
冬の早朝は、雪が降っていると尚更素晴らしく、寒さのなかを、火をつけ、炭を持って運んでいる様も、冬の朝にふさわしく、昼になり、少し寒さが和らぎ、火桶の炭火も白い灰が多くなっているのは、見た目がよくない、とあります。
近い時間帯を指し、春で使われる「曙」と、冬の「つとめて」の違いですが、「曙」はちょうど「夜が明けていく頃」です。
一方、「つとめて」は、「夜明け後、まだまもない早朝」と言えるでしょう。
昔は、今のように早朝の5時だったり、6時という単位がなかったので、特に「何時」といった範囲が決まっているわけではありません。
以上、『枕草子』の冒頭、「冬はつとめて」の意味でした。