秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる〜意味と現代語訳〜
〈原文〉
秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる
〈現代語訳〉
秋が来たと、はっきりとは目に見えないが、風の音を耳にすると、秋のおとずれにはっと気づかされる。
概要
作者の藤原敏行は、平安時代前期の貴族、歌人、書家で、三十六歌仙の一人でもあります。
生まれた年代は不詳ですが、亡くなった年は、昌泰4年(901年)または延喜7年(907年)と考えられています。
書家として秀でていた藤原敏行は、空海と並べられるほどの書道の大家でもあり、和歌は、勅撰和歌集『古今和歌集』などに収録されている他に、家集『敏行集』もあります。
勅撰和歌集とは、天皇や上皇の命令によって編集された和歌集のことです。
この「秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる」という和歌は、『古今和歌集』に収録されている歌です。
詞書として、「秋立つ日詠める(立秋の日に詠んだ)」という言葉がついています。
詞書とは、和歌の前に書かれ、その和歌の詠まれた状況や題名などが書かれた文章のことで、「題詞」や「詞」ということもあります。
冒頭の「秋来ぬ」とは、読み方が、「こぬ」ではなく「きぬ」で、「秋が来ない」という意味ではなく、「秋が来た」となります。「ぬ」は完了の助動詞です。
立秋は、現在の8月上旬頃なので、まだ夏の盛りであり、はっきりと秋が姿を見せることはありません。
しかし、かすかな風の音に、「ああ、秋が来たのだ」と感じ取ることができるという、その感覚を描いた歌です。
確かに、立秋の頃になると、まだまだ景色は夏真っ盛りでも、風のなかにかすかな秋のおとずれを感じることがあります。
この「秋来ぬ」に続く、「見えねども」というのは、「見えないけれども」という意味です。「さやかに」というのは、「はっきりと」という意味です。
さやか、というのは、現代でも使われる言葉で、漢字で書くと「明か/清か」となります。
さやかは、「はっきりと」という以外に、「さえて明るいさま」「音や声がさえてよく聞こえるさま」「さわやかなさま、爽快なさま」といった意味もあります。
目にはさやかに見えねども、というのは、「(秋が来たと)目にははっきりとは見えないけれども」となります。
最後の「おどろかれぬる」とは、「はっと気づかされる(おどろく=はっと気づく)」という意味です。
この「秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる」という作品を分かりやすく現代語訳すれば、「秋が来たと、はっきりとは目に見えないが、風の音を耳にすると、秋のおとずれにはっと気づかされる。」となります。
凝った表現というわけではありませんが、夏の終わりに、季節の変わり目を繊細に捉え、真っ直ぐ表現した作品と言えるでしょう。
江戸時代には、「秋来ぬと」と聞けば、「風の音」と口に出るほど、立秋を詠んだ和歌の代表作として一般に浸透していたと言います。

江戸時代中期の俳人である与謝蕪村の作品にも、藤原敏行の歌を踏まえた、「秋来ぬと合点させたる嚔かな」という句があります。
これは、秋が来たと、くしゃみをしたことで納得がいったよ、という意味です。ある種のパロディのような感覚だったのでしょうか。
また、藤原敏行の秋の作品としては、以下の和歌なども挙げられます。
秋の夜のあくるもしらず鳴く虫は我がごと物や悲しかるらむ
現代語訳 : 秋の長い夜が明けるのも知らずに鳴き続ける虫は、私のように悲しいのだろうか。
何人か来て脱ぎかけし藤袴くる秋ごとに野辺をにほはす
現代語訳 : どんな人が来て脱いで掛けていったのだろうか、藤袴は秋が来るたびに野辺によい香りを匂わせる。
藤袴とは、秋の七草の一つで、人の着る袴に見立てて詠んだ歌です。