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和歌・短歌

白鳥はかなしからずや空の青海のあをにも染まずただよふ〜意味と現代語訳〜

白鳥はかなしからず空の青海のあをにも染まずただよふ〜意味と現代語訳〜

〈原文〉

白鳥はかなしからずや空の青海のあをにも染まずただよふ

〈現代語訳〉

白鳥は悲しくないのだろうか(きっと悲しいだろう)、空の青色にも、海のあお色にも染まることなく漂っている。

概要と解説

作者の若山牧水は、1885年(明治18年)に宮崎県に生まれ、1928年(昭和3年)に亡くなる戦前の代表的な歌人です。

旅を愛した若山牧水は、各地を旅しては歌を詠み、また酒も好きだったので一日に一升程度飲んでいたと言い、加えて、自然を愛し、情熱的な恋の人でもありました。

若山牧水の作品のなかで、もっとも有名な代表作の一つとして、教科書にも取り上げられているのが、この「白鳥はかなしからずや空の青海のあおにも染まずただよふ」という歌です(歌集『海の声』収録)。

冒頭の「白鳥」の読み方は、「はくちょう」ではなく、「しらとり」と読みます。

両者の違いとして、白鳥を、「はくちょう」と読んだ場合、鳥の種類が決まり、その鳥の大きさや季節なども決まってきます。

一方、「しらとり」の場合、白い鳥全般を指し、様々な解釈の余地が生まれます。

最初の発表時には、「はくてう」とルビが振ってあったものの、一年後、第一歌集の出版の際には、「しらとり」と読み方が変更され、また、海と空の位置も変わっています。

白鳥はくてうは哀しからずや海の青そらのあをにも染まずただよふ(初版)

白鳥しらとりは哀しからずや空の青海のあをにも染まずただよふ(翌年)

なぜ読み方の変更があったのか、理由は定かではありませんが、最終的に、若山牧水は、「白鳥」を「しらとり」とします(参照 : 若山牧水の「白鳥は」歌について|同志社大学)。

また、「染まず」は、「しまず」という読み方をする人もいるようですが、若山牧水の奥さんが、牧水本人は「しまず」ではなく「そまず」と読んでいた、という旨を手紙に残しているようです。

拝復
御問合せの歌の読み方は、「そまず」が正しいのです。故人も
「しまず」とは読んでをりませんでした。
右御承知おき下さいませ
十二月二十九日夜                   若山喜志子

出典 : 染まずただよふ 若山牧水 「白鳥は」の歌

そのため、この短歌の読み方としては、「しらとりは かなしからずや そらのあお うみのあおにも そまずただよう」ということが言えるでしょう。

ちなみに、若山牧水の自筆の色紙にも、以下のような表記で綴られています。

画像 : 若山牧水記念館

かなしからずや、というのは、反語ないしは疑問の意味の可能性があり、反語の場合、「悲しくないのだろうか(いや、きっと悲しいだろう)」と、より悲しみを強調する意味合いとなります。

現代語訳は、「白鳥は悲しくないのだろうか(きっと悲しいだろう)、空の青色にも、海のあお色にも染まることなく漂っている」です。

白鳥が、空の色にも、海の色にも染まることなく漂っている、という孤独感や寂しさを詠んだ歌である、という解釈が考えられます。

白鳥はくちょうと意味を固定してしまうと、その孤独感が薄らぐので、読み方を、より普遍的な意味となる「白鳥しらとり」にしたのでしょうか。

その「白鳥」とは、牧水自身のことかもしれませんし、また特定の誰かのことだったのかもしれません。

この歌の描いた世界は、一体どういった情景なのでしょうか。

漂っている、というのは、果たして飛んでいるのか、それとも水面に浮いているのか、と様々な解釈が可能です。

ただ、空にも、海にも染まることがない(染まることができない)ということから、「漂う」というのは、海の一部である水面ではなく、また大空とも言えないような、それほど高くはない辺りを、心もとなく飛んでいる、という情景を描いたものと想像できるかもしれません。

以上、若山牧水の歌「白鳥はかなしからずや空の青海のあをにも染まずただよふ」の意味と現代語訳でした。