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心理

一人暮らしや引きこもりで寂しい夜

一人暮らしや引きこもりで寂しい夜

寂しさや孤独は人間の根っこにある

人間には、どうしても、寂しいときや孤独なときがあると思います。

この世界に、自分一人だけのような気がして、どこまでも沈んでいきそうで耐えられない夜が、生きているあいだにはあって、本当に辛いときには、もう生きているのも嫌になることがあるでしょう。

寂しさや孤独は、幼い子どものときよりも、むしろ徐々に年齢を重ねていき、思春期になったり、大人になってから、いっそう色濃くなっていっているのではないでしょうか。

萩原朔太郎さんという、むかしの日本の詩人がいます。

彼が、人間の孤独について、詩集の序文に次のように書いています。

人間は一人一人にちがった肉体と、ちがった神経とをもって居る。我のかなしみは彼のかなしみではない。彼のよろこびは我のよろこびではない。

人は一人一人では、いつも永久に、永久に、恐ろしい孤独である。

原始以来、神は幾億万人という人間を造った。

けれども全く同じ顔の人間を、決して二人とは造りはしなかった。人はだれでも単位で生れて、永久に単位で死ななければならない。

出典 : 萩原朔太郎『月に吠える』

人間というのは、本来、誰もが違った肉体と神経とを持っていて、自分のかなしみも相手のかなしみも違って、だからこそ、一人一人というのは孤独なんだ、というわけです。

でも、孤独で、本当の本当にひとりきりだったら、もしかしたら、寂しさもないのかもしれません。

たとえば、ひとりぼっちの自分以外に誰もいない無人島があって、その島で静かに暮らしていたら、誰かと話したい、繋がりたい、という感情もなくなって、それゆえにきっと寂しさもなくなるでしょう。

あるいは、野生の動物のように、ただ純粋に本能のままに「今」という瞬間を生きていたら、こんなにも深い、死さえも意識するような寂しさという感情もないのかもしれません。

しかし、人間というのは、孤独であるにもかかわらず、完全にひとりにもなれず、社会のなかで生きなければなりません。

寂しさというのは、「繋がることができる環境でありながら、繋がれない状況によって芽生えるもの」なのでしょう。

インターネットや携帯電話の普及によって、いつでもどこでも繋がることのできる環境になったら、より繋がれないことも突きつけられ、むかしの生活よりも、さらにいっそう寂しい想いに襲われることも増えたのではないでしょうか。

ただ、孤独や寂しさというのは、もちろん現代社会に特有のものではなく、はるか昔からあるもので、だから和歌などでも、寂しさが季節の景色とともに詠まれています。

たとえば、百人一首にもある、柿本人麻呂(飛鳥時代)の歌に、秋の夜長に逢いたい人を想って寂しさを募らせる、「あしびきの山鳥やまどりの尾のしだり尾の長々し夜をひとりかも寝む」という和歌もあります。

現代語訳すると、「山鳥の尾の長く長く垂れ下がった尾っぽのように、この長い夜を(想い人にも逢えないで)独りさびしく寝ることだろうか。」となり、誰かを想って一人寂しく長い夜を過ごしている様子が歌われています。

こういう風に考えると、孤独や寂しさというのは人間にとっての根っこといってもよく、完全になくすことはできないもので、だからこそ、ときに誰かと話したり、抱き合ったり、音楽や小説で癒したり、運動や趣味ではぐらかしながら、上手に上手に、付き合っていくしかないものなのでしょう。

一人暮らしの夜に寂しい

大学進学や社会人生活、単身赴任などをきっかけに、一人暮らしをする人も多いのではないでしょうか。

これまで家族と一緒に暮らしていたときは、まだ平気だったものの、実家を離れ、一人暮らしを始めると、途端に寂しさや孤独感と直面することになります。

それでも、日中は、仕事や学校があったり、外が賑やかだったり、何か暇つぶしすることがあることで、孤独感や寂しさを紛らわせることができるかもしれませんが、特に一人暮らしの夜、静けさに包まれると、寂しさのあまり、胸のあたりが沈んでいくような感覚になる人もいるでしょう。

一人暮らしによる寂しさの感情というのは、「慣れ」の要素も大きいでしょう。

一人暮らしが始まってしばらくは、一人の時間に慣れていないので、いつも「本来いるはずの誰かがいない」という感覚になります。

ぽっかりと空白があるように感じ、いよいよ寂しくなって、その穴を何かで埋めたくなります。

逆に言えば、一人暮らしをしているときに寂しいという人は、その空白を埋める「何か」を見つけるようにすることが大事になります。

そのときには、もちろん、友人や誰かと話したい、という気持ちから、会って話をする、電話をする、というのもよいでしょうし、もう少し深い関係を築きたいようなら、恋人を探す、というのも一つでしょう。

ただ、寂しさを埋めるために彼氏や彼女を見つける、という動機で慌てて恋人選びをしようとすると、どうしても判断に焦り、結果として、もっと傷ついたり、寂しい思いをするといった可能性も高くなるので、まずは、一人でもできる趣味を探す、という順番で始めることのほうがよいかもしれません。

読書、映画鑑賞、スポーツ、習い事など、没頭できるような趣味を持ち、一人で夜ぼんやりしているときでもできることを始めてみる。

恋人は、その共通の趣味などをきっかけにしたほうがよいでしょう。

空白を埋めるために、「寂しい」のみを理由にしてしまうと、相手に強く依存してしまうことにも繋がるので、趣味をつくる、何か始めてみる、寂しさに対する、ある程度自立した対処法を自分で持っている、という状態のほうが、長い目で見たときに、より安定した関係性を築けるでしょう。

その他、観葉植物を買ったり、ベランダで植物を種から育てたり、犬や猫、小動物、魚や爬虫類など、動物と暮らす、というのも一人暮らしの際のおすすめの寂しさへの対処法と言えるでしょう。

イラストレーター、漫画家の佐野裕一さんは、植物のある暮らしについて、次のように書いています。

生活に植物があることで、私にとってたくさんの良いことがありました。それは先ほどの内容とも少し重複してしまうのですが、一番大きいのは、自宅でゆっくり過ごす時間がより豊かになったことです。

人間よりもはるかにゆったりとした時間の感覚を持つ植物と過ごすことで、オフの時間の過ごし方が少し変わりました。ゆっくりした人と過ごしていると、少し時間がゆっくりに感じられる、というような感覚に近いかも知れません。

日記を書くとき、絵を描くとき、本を読むとき、珈琲を飲むとき。植物と一緒だと、より一層その時間がふくよかに感じられるのです。

出典 : 植物が「私だけの時間」を豊かにしてくれた。ワンルームで約180の植物を育てる私がおすすめしたい、植物のある暮らし

植物や動物と暮らすことで、寂しさなど精神面の影響だけでなく、時間の流れ方が変わる、ということもあるでしょう。

ただ、動物の世話も大変ですし、あまりに感情移入しすぎると、死んでしまったあとがいっそう寂しくなるので、動物を飼うとなったら、その辺りも考えながら決めるようにしましょう。

一方で、誰かと話したい、という気持ちは強くても、人とうまく話せないという場合は、少しずつ慣れるために、まずはぬいぐるみに話しかける習慣から始めてみる、という方法もよいでしょう。

自分の本音や弱音を、言葉として出そうとすると、胸のあたりでつっかえて止まってしまう人は、昔からの経験や記憶、心の傷などによって、そういった心の癖が染み付いてしまっています。

まずは、そのまま言葉にして出す練習のために、本音や弱音を、愚痴でも、悩みでも、不安でも、ずっと我慢してきた悲しみでも、上手に話せなくていいので、声に出してぬいぐるみに話してみるとよいでしょう。

ぬいぐるみが相手でも、本音となると緊張するかもしれません。

それでも、言葉にしてみる、話してみる、表に出してみる、ということ自体は、とても大事なことです。

そのときに、もし感情が溢れて泣きたいと思ったら、そのまま心ゆくまで泣きましょう。

引きこもりで寂しい

様々な理由やきっかけがあって、不登校になったり、会社に行けない、人との関わりが怖く、外出ができない、という状態になっている人も少なくないでしょう。

家にこもっている状態は、一般的に「引きこもり」と呼ばれています。

この表現は、「最近、引きこもり気味でさ」などと普段の会話でも使われる言葉ですが、定義としては、「家族以外との人間関係がなく、社会参加をしていない状態」を意味します。

ひきこもりとは、家族以外との人間関係がなく、社会参加をしていない状態を指します。

必ずしも家に閉じこもっているわけではなく、外出をするような方でも家族以外の方との親密な対人関係がない状態は引きこもりに含まれます。

不登校をきっかけとして、ひきこもりになる方もいますし、退職をきっかけとしてひきこもりの状態に陥ることもあります。

どなたであってもひきこもりの状態になる危険性があり、大きな問題のない一般的な家庭でも起きてしまいます。

出典 : ひきこもりについて|メディカルノート

まだインターネットやSNSが普及する前であれば、引きこもりになると、なかなか人間関係を築くことも難しかったでしょうが、今は、外出しなかったとしても、インターネットを通じて他者との関係を築いている人も多いでしょうから、引きこもりの境界線というのも曖昧になっているかもしれません。

ただ、不登校だったり、会社に行っていない、また、その他のグループ活動や交友関係など、他者との交流、社会への参加がない状態というのは、それゆえに孤独であったり寂しい感情にさいなまれることも多いでしょう。

人と繋がるということもストレスで、だからと言って、社会参加がないと一人ぼっちで寂しく苦しい人にとって、この板挟みの状態も、相当に辛いものがあると思います。

しかも、引きこもりの状態が続けば続くほど、まるで使わないと衰えていく筋肉のように、誰かとコミュニケーションを取ることが難しくなり、誰かと話したい、と思っても、どうやって話したらいいか分からずに、話そうと思っても緊張で声が出ない、といったことにもなります。

人と話していないことで「話し方を忘れる」という話もありますが、本当に、話す機会が減っていくと、「話し方を忘れる」という感覚になることがあります。

そのため、引きこもりなどで人と話せない、という際には、まずはリハビリとして、なるべく「話しやすい人」と話す、という機会を増やすことがおすすめです。

もし外出が可能であれば、カウンセリングもよいかもしれません。カウンセラーとの相性もあるので、自分に合ったカウンセラーを探しましょう。

また、マッサージや鍼灸などもよいでしょう。話したいのに話せない、会話ができない状態のときには、緊張で体が硬くなっていることも少なくありません。

リラックスには、身体的にゆるむ必要があり、その意味では、アロマの香りやヒーリングミュージック、マッサージによって心身がほぐれた状態だと、自分が思っている以上にリラックスして人と話すことができます。

家から出られない場合は、家族や友人の知り合いでも、電話のカウンセリングでも、あるいは、信頼できそうな相手であれば、SNSで繋がった友人でも、少しだけ話してみる、というのもよいでしょう。

怪我をして休んでいたあいだの筋肉のようなもので、いきなり会話をしようとしても難しいでしょうから、少しずつ、話しやすい相手と、自分が一番リラックスできる状況で話すことに慣れていくことが肝心です。

それでも不安なようであれば、こういう環境ならまだ話しやすいかもしれない、ということや、途中で苦しくなったら話せなくなるかもしれない、退出するかもしれない、という旨などを伝えておくようにするとよいでしょう。

予期不安という言葉がありますが、「こうなったらどうしよう」という不安が多いほど、緊張が重なり、余計に話せなくなってしまうので、その辺りの不安があれば、文章などで伝えておくようにしましょう。

まとめ

古くから、人間にとって「寂しい」という感情は、避け難いものです。

これは万葉歌人でも、故郷を離れて一人暮らしをしている大学生やOLでも、外に出ることが怖い引きこもりの少年でも、本質的なことは変わらない、ということが言えるでしょう。

だからこそ、それぞれが、自分自身の寂しさとどうやって向き合っていくか、ということも大事になってきますし、また、文学や音楽などの表現を通して、「寂しさ」同士が繋がることで、ほんの少し、寂しさが薄らぐ経験も必要でしょう。

くものある日
くもは かなしい
くもの ない日
そらは さびしい

出典 : 八木重吉『秋の瞳』