毒親の母親とメンヘラ〜生きづらい原因を考える〜
毒親とは、意味と由来

毒親という言葉が、すっかり広がり、一般に浸透しつつあります。
毒親とは、文字通り、「子供にとって“毒”と比喩されるような多大な悪影響を与える“親”」のことを意味します。
この言葉は、一体いつから使われるようになったのでしょうか。
毒親という概念の起源を見ると、アメリカの医療関係の専門家であるスーザン・フォワードの1989年の書籍『Toxic Parents, Overcoming Their Hurtful Legacy and Reclaiming Your Life』に由来します。
この本が、1999年、日本で『毒になる親 一生苦しむ子供』として出版されます。
毒親は、英語で「toxic parents」と言います。toxicとは、「有毒な」「中毒性の」という意味で、語源はギリシア語で「矢につける毒」を表すtoxikonです。
この本のなかでは、「毒親」の定義に関し、「子どもの人生を支配し、子どもに害悪を及ぼす親」と説明されています(Wikipediaより)。
『毒になる親』では、毒親は「子どもの人生を支配し、子どもに害悪を及ぼす親」を指す言葉として使われた。
『毒になる親』冒頭でフォワードは、まず「この世に完全な親などというものは存在しない」とし、「時には大声を張り上げてしまうこともある」、「時には子供をコントロールし過ぎることもある」、「怒ってお尻を叩くこともあるかもしれない」という親も「普通」であるという見解を示している。
続けて、こうした普通の親とは異なる親の存在として、「ところが世の中には、子供に対するネガティブな行動パターンが執拗に継続し、それが子どもの人生を支配するようになってしまう親がたくさんいる」と述べた。
誰もが完璧な人間でもなければ、完璧な親でもなく、行き過ぎることがあることは「普通」である、と認めつつも、子供に対するネガティブな行動パターンを「執拗に継続」し、子供の人生を支配するようになってしまう親が問題だと指摘します。
毒親とは、しつけとして叱ることでもなければ、つい激しく怒りすぎてしまうこともある、という程度でもなく、「執拗」に継続し、子供の人生を支配する、という点が問題だと言えるでしょう。
精神科医の齋藤学さんは、子供のことを支配する「毒親」の特徴として、「過干渉」「ネグレクト」「暴力(激しい暴言や性的虐待など)」「精神障害など病的な原因に由来するもの」という4タイプが挙げられると言います。
毒親の特徴の4タイプ
・過干渉
・ネグレクト
・暴力(激しい暴言や性的虐待など)
・精神障害など病的な原因に由来するもの
明らかに愛情がないと思える「ネグレクト」や「暴力」が毒親という見方は分かりやすいかもしれませんが、一見すると愛情があるように見える「過干渉」もまた、子供に悪影響を及ぼす「支配」の形であり、毒親に区分けされることがあります。
実際に毒親に育てられたという当事者の方は、毒親かどうかの境界線や定義として、「子供が親の所有物ではなく、自分とは違う人間と思えるかどうか」という点を指摘しています。
まず、自分を育ててくれた親を『毒親』と呼ぶことに罪悪感がないわけではありません。でも、殴る蹴るといったわかりやすい形の虐待だけでなく、はたから見れば大事に育てているようでも、目に見えない『毒』をその言動に忍ばせているケースも多いと思います。そのことは、もっと認識されていいのではないでしょうか。
……子どもは親の所有物じゃない。自分とは違う人間だと思えるかどうかが、『毒親』になるかどうかの境界線じゃないでしょうか。
私も親として欠点だらけですが、自分の子育てで気をつけたことがあるとすれば、それは『いつでも子どもの味方になってやること』でした。世間や社会が『お前はダメだ』といったとしても、私だけは『すばらしい』といってあげる。これは私が、両親に対してそうしてほしかったことでもあります。
なぜ毒親は毒親になるか、という原因で言えば、たとえば、親自身が精神的に自立できないこと、夫婦仲が悪いこと、親自身が毒親のもとで育てられたこと、趣味がない、友人がいないこと、なども挙げられます(参照 : 毒親とは?4つのタイプや毒親化の原因・辛い時の対処法を解説)。
過保護や過干渉の親は、子供の人生に自分の人生を重ね合わせる、叶わなかった夢を託す、といった状態にあることも多く、これは言い換えれば、精神的に自立することができず、自分の人生を生きていない、ということも言えるでしょう。
ある種、子供に依存しているような形で、子供が離れていくと生きていけない、となってしまっている結果、親自身は「こんなに愛しているのに」と思っても、子供にとっては毒親のようになってしまうこともあるかもしれません。
夫婦仲が悪いと毒親になる理由としては、夫から受けるストレスが、より言いやすい子供に向かっている、という場合もあるでしょう。これは精神的、身体的な暴力などを与えるケースに多いのではないでしょうか。
また、親自身が、毒親に育てられると、子供との接し方が、自身の親子関係の記憶しかないために自分も毒親的な接し方になってしまう、という場合もあるでしょう。
趣味がない、友人がいないことが原因の場合もあり、これも自分の人生を生きていないからこそ、全てが子供に集中し、自分と一心同体、まるで所有物のように思い込み、過干渉や過保護が支配に繋がり、子供にとって毒親となる可能性もあります。
子供を愛することはもちろん大事であり、支えも必要ですが、その前提には、親が自分の人生を生きている、あるいは、多少なりともその点を自覚し、親自身も変わっていこうとする、ということも重要と言えるでしょう。
「毒親」の浸透と対処法
毒親という言葉や概念は、日本での出版や紹介の影響もあってか(2008年頃から関連書籍が増え、2015年にはある種のブームとなります)、今ではだいぶ知られるようになり、Googleトレンドで調べても、徐々に浸透していっている様子が伺えます。
2010年以降、増加傾向が続く
ツイッター上でも、「毒親」という言葉は頻繁に登場し、若者を中心に、だいぶ市民権を得た言葉となっています。
以下は、ツイッター上で発信されていた「毒親が子供に及ぼす影響」に関する指摘です。他人に自分の意思や欲望を表明できない、完璧主義になる、受け入れてほしい想いから恋愛で依存体質になる、といった影響が挙げられています。
毒親に育てられた子供、行動指針が基本的に「大人に怒られない」が第1になり、自分の意思や欲望を抑え込んで周囲に迎合する事が習慣化するので、成人したら「なるべく楽なのがいい。苦しいのは嫌だ」以外の自分のやりたい事や願望が1切分からない虚無人間が誕生しがち
– rei@サブアカウント(@Shanice79540635)
毒親による影響
・完璧主義になる
・人を信用できなくなる
・常識を知らないため社会でつまづく
・人付き合いが難しい
・将来の結婚感が一般的な人とづれる
・普通の家庭の人と価値観が合わない家庭環境の影響は気付きづらい小さなところに出る。その小さな積み重ねが大人になって降りかかる
– 第2の家族|家庭環境に特化したメディア【公式】 (@nolabit0)
これまじです。「親にワガママ言えなかった人」は恋愛で依存するようになる。小さい頃にずっと我慢してきたぶん「甘えたい」「大切にされたい」「受け入れて欲しい」って気持ちが強くなりすぎるから。毒親育ちの長女によくありがち。
– 限界社不ちゃん (@gnkaicha)
このような影響は、必ずしも大人になったら解決するというものでもなく、長年に渡って尾を引く問題と言えるでしょう。
親ガチャとは
また、「毒親」という概念と関連し、「親ガチャ」という言葉もあります。
親ガチャとは、ネット発の用語で、生まれつきの容姿や能力、家庭環境などによって人生が大きく左右されるという認識のもと、〈生まれてくる子供は親を選べない〉という現実を、スマホゲームの〈ガチャ〉 に喩えた言葉です。
この言葉は、2021年に流行語大賞にノミネートされています。
親ガチャで、毒親の家庭に生まれたことだけが「外れ」というわけではなく、容姿や能力など幅広い観点から用いられる言葉で、基本的に、自分は「当たり」ではなく「外れ」だと考えている子供側によって使われます。
確かに、おぎゃあと生まれた赤ん坊のときというのは一見平等なスタートのようで、実際は生まれた場所や育った環境によって雲泥の差があり、お金持ちで父親や母親から愛され、(容姿は仕方ないにせよ)容姿もよい人と、貧困な環境で親も毒親という場合では、全く違った条件下で、長い人生においても相当の影響が出てくるでしょう。
格差社会という言葉もありますが、親ガチャというのは、様々な形の家族があり、そのなかには毒親も数多く存在し、その家庭環境が、子供の生育や心理など人生全般に深く影響を与え、経済格差も含め生まれたときからの環境格差が著しく大きい、という現状を物語った言葉と言えるのかもしれません。
【毒親育ち】毒親育ちを苦しめる、毒親あるある【30連発】
「メンヘラ」
また、毒親の増加(これは言葉の浸透もあるでしょうし、実際に増加していることもあるのでしょう)とともに一般化していっている言葉に「メンヘラ」もあります。
メンヘラとは、もともとネットの匿名掲示板の2ちゃんねるが起源の言葉で、「メンタルヘルス」の略語のメンヘルが語源です。このメンヘルから派生し、メンヘラという言葉になります。メンヘラという用語は、主にネット空間や若者を中心に、2000年〜2010年頃に渡って浸透していきます。
メンヘラという言葉は、当初は心の健康に関する書き込みが行われる2ちゃんねるのメンタルヘルス版の人たちを指していたものの、次第に意味が広がり、精神的に闇を抱えた人、情緒不安定な人、自傷行為を重ねる人などを含めるようになります。
その場合、必ずしも病名がつく状態を指すわけではなく、定義は曖昧で、ざっくりと情緒不安定な人全般を指す用語として使われています(類語として、精神的につらい状況を意味する、メンブレ=メンタルブレイクもあります)。
現在では、このメンヘラという言葉も、(テレビではあまり使われることはないものの)一般的には日常やツイッターで目にすることも多く、認知度の高い言葉となっています。
この「毒親」「メンヘラ」の2000年代以降の増加や浸透具合に関しては、毒親自体が、ある種の「メンヘラ」的な状態でもある、ということもあれば、毒親に育てられた経験や家庭環境の影響から「メンヘラ」になりやすくなる、ということも考えられ、この辺りは深く関係しているのかもしれません。
母親がメンヘラである、という声も、ツイッターで検索すると相当出てきますし、SNS以外のネットでも散見されます。
こんにちは。私は今中学生です。母親がメンヘラで鬱になりそうです。彼女はメンヘラの類なのか分からないけれど、とにかく自分の思い通りにならないとすぐに暴力や暴言、または物を投げつけたりします。
母親が「メンヘラ」的な状態にある、ということに関しては、その度合いにもよりますが、本人のもともとの心理や過去の経験も関連しているでしょうし、そのことに加え、積年のストレスによる心身症や、更年期障害ないしは月経前症候群など身体的な影響も関係している可能性もあるでしょう(父親の不安定さも、日々のストレスや男性の更年期障害などの問題も関係しているかもしれません)。
この点に多少なりとも本人が自覚的であれば、ちょっとずつでも解決に向かえるのでしょうが、無自覚だと、常に当たられる子供の側が全部悪い(または、「全部私が悪い」と自暴自棄になる)とされるでしょう。
また、こういった背景の可能性に関し、子供なり第三者なり誰かが上手に伝えられればよいものの、人によっては余計に逆上させてしまう危険性もあり、この辺りも難しい問題です。
>>更年期症状を和らげてくれる食べ物と避けたい食べ物とは? 更年期の栄養学「基本のき」毎日の食事で更年期の過ごしやすさが変わります!|婦人画報
毒親への対処法としては、原因や度合い次第では、今言ったように、しっかり話し合う、一緒に向き合うことで変わっていく、というのも一つかもしれません。
ただ、多くの場合はなかなか言葉も届かないでしょうし、いずれにせよ、いったん自分自身を救うために(場合によっては親のためにも)、距離を置く、家を出る、一人暮らしをする、ということが大事な選択肢の一つと言えるでしょう。
とにかく、距離を置く、逃げる、ということが大事である一方で、安心して逃げられる「逃げ場」が見つからない、という人も多いのではないでしょうか。
逃げ場が見つからないと、もう生きていくことができない、という方向に感情が支配されたり、より身も心も悪化させるような様々な形の誘惑に逃げ場を求めてしまうこともあるでしょう。
未成年であれば、尚更です(参考 : 親から逃げたい! 未成年が安全な逃げ場を確保するには?|弁護士JP編集部)。
社会にはもっと、安心して逃げられる場所が必要ではないか、という気がしてなりません。
生きづらさとは
今、生きづらい、と感じる若者も決して少なくありません。
もちろん、世の中が生きづらいと思うのは、今に始まったことではなく、明治の文豪の夏目漱石も、小説『草枕』の冒頭で次のように書いています。
山路を登りながら、こう考えた。
智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。
出典 : 夏目漱石『草枕』
この冒頭の文章は、生きづらい主な原因として「人間関係」を置き、頭のよさが見えすぎれば角が立って嫌われ、情が深く他人の感情を気遣っていたら流され、意地を通そうとしたら窮屈になる、だから、人の世は住みにくい、といった意味となります。
もともと社会というものには人間関係が付きまとい、どうしても生きづらさからは抜け出せません。
一方で、現代の生きづらさには、その上、さらに様々な原因や要素も考えられるのではないでしょうか。
それは親子関係も含めた人間関係だけでなく、ブラック企業など雇用の問題、将来不安の問題、日々のストレスによる慢性的な体調不良の問題、食生活の乱れや睡眠不足などに由来する身体的な問題、テレビやSNSなど情報過多によって常に人との比較に晒される問題など、心身ともに、いっそう窮屈で疲れやすく、生きづらい社会になってしまっているのではないのでしょうか。
その結果、いわゆる「メンヘラ」のような状態に陥る人も増加し、毒親も増加する。毒親に育てれられると、メンヘラになりやすくなる、といった悪循環に陥っている、ということもあるのかもしれません。
生きづらい、という心理や社会には、多かれ少なかれ、こうした複合的な環境要因も関わっていると言えるでしょう。
『母という病』|本
その生きづらさの要因の一つである「毒親」、特に母親の問題について、もう少し深掘りしてみたいと思います。
親子関係の専門家で精神科医の岡田尊司さんは、著書『母という病』のなかで、生きづらさの根底には、「基本的安心感」の欠如があり、その本質的な原因として、子供の頃の母親との関係があると指摘します。
岡田尊司『母という病』
本には、母親という十字架に苦しんでいる人へ、という帯文が書かれ、「うつ、依存症、摂食障害、自傷、ひきこもり、虐待、離婚、完璧主義、無気力、不安、過度な献身」の根っこにある原因として、母親との関係を挙げています。
幼い頃、あるいは、それ以降、「母親に受け入れてもらえなかった」という体験が、「基本的安心感」の欠如に繋がり、その不安感を埋めようと、完璧主義や、他者への過度な献身、誰かや何かがないと不安で仕方がなくなるような依存症になる。
これらは、完璧でなかったら捨てられる、断ったら嫌われる、という心情に陥る「見捨てられ不安」や、「自己肯定感の低さ」などと言い換えてもいいかもしれません。
母親との関係による根深い傷。たとえば過干渉であったり虐待をする母親に対し、「良い子」を演じないと、という心理が植え付けられる。
過干渉と虐待は、「毒親」の区分けの際にも触れたように、「支配」という点で繋がっています。
「良い子」を演じてしまうということは、それだけ支配されているということだ。支配とは、暴力や強制といった形をとるとは限らない。見かけはもっと美しい、立派な体裁を取る支配もある。
出典 : 岡田尊司『母という病』
自分は、「良い子」でなければ、完璧でなければ、無価値なのだ、無価値であると捨てられるに違いない、という不安や緊張が、人間関係における基本的な姿勢となってしまいます。
しかし、完璧主義であることは、ずっとは続きません。
完璧主義によって頑張り過ぎれば、いずれは無理が重なり、心身を壊してしまうことになるでしょう。
完璧を求める気持ちと結びついているのは、頑張りすぎることだ。義務を完全に果たそうとして、あるいは、目標達成しようとして頑張る。自分がもう一杯いっぱいなのに、それでも義務や目標達成を優先しようとする。
そうしなければ、自分が無価値になってしまうと思っている。そうすることでしか、周囲に認めてもらえないと思っている。だが、それは自分に大きな負担を強いることになる。
頑張っても頑張っても、満足感よりも、まだ足りないことのほうに目が行きがちになる。その結果、頑張りすぎて、体を壊したり、精神的なバランスを崩したりしてしまうこともある。
出典 : 岡田尊司『母という病』
この本では、ジョン・レノンのような芸術家などの親子関係(ジョン・レノンの母親は、我が子を放っておくことが多く、彼は幼い頃から伯母のもとで育てられ、思春期の頃から親への愛に飢えていた)も具体例として紹介しながら、「母という病」に苦しみ、場合によっては表現という形に昇華させていった人も描かれ、その影響が、より理解しやすい構成となっています。
有名人だけでなく、実際に診てきた人の親子関係や精神状況も分析し、丁寧に書かれているので、母親の影響に苦しんでいる人は、より納得感を持って読めるかもしれません。
この『母という病』は、母親との関係に悩んでいるという自覚のある人だけでなく、そうではない人にとっても学びのあるおすすめの一冊だと思います。
本音を伝えようとすると涙が出るのはなぜか|YouTube
もう一つ、こちらはカウンセラーさんの動画ですが、もし、題名にある「本音や気持ちを伝えると涙がでる。言いたいことを言おうとすると泣いてしまうのはなぜか?」という言葉に共鳴できるようなら、この動画を観てみると発見があるかもしれません。
本音や気持ちを伝えると涙がでる。言いたいことを言おうとすると泣いてしまうのはなぜか?
毒親に育てられるような息苦しい家庭環境だと、自分で自分を抑えつけるすることが(ときに恐怖心とともに)染み付き、思っていることが、心の奥で詰まったようになって言葉にできなくなることも少なくないでしょう。
その後、大人になっても、恋人や上司などに対し、思っていることが言葉にできない、本音が言えない、本音を話したら嫌われるんじゃないか、離れていかれるんじゃないか、と不安になって話せない、という状態になる。
そういった辺りの心理的な原因や構造、対処法などを、優しく解きほぐすように解説してくれます。
最後に、先ほど触れた夏目漱石の『草枕』の冒頭、あの文章で終わりだと絶望的ですが、実は、ささやかな希望に繋がる続きがあります。
住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画が出来る。
人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三軒両隣りにちらちらするただの人である。ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。
越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、寛容て、束の間の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。ここに詩人という天職が出来て、ここに画家という使命が降る。あらゆる芸術の士は人の世を長閑にし、人の心を豊かにするが故に尊とい。
出典 : 夏目漱石『草枕』
生きづらいと、生きやすい場所を探してどこかへ行きたい、と思うが、どこへ行っても同じなのだ、と悟ったとき、詩が生まれ、絵ができる。

漱石は、「あらゆる芸術の士は人の世をのどかにし、人の心を豊かにするがゆえに尊い」と書いています。
もちろん、毒親やDV、ブラック企業のような劣悪な環境で限界まで頑張り続け、心身ともに壊してしまうことは決してよいことではなく、まずはいったん離れる、逃げる、ということが重要な場合も少なくありません。
一方で、またそれとは違う次元の話として、『草枕』にある通り、この世界のより普遍的な生きづらさを真っ向から受け止め、表現によって昇華させる芸術家の存在によって、束の間でも住みよくなる、心が呼吸できるようになる、それゆえ尊い、ということも言えるでしょう。