永田和宏〜きみに逢う以前のぼくに遭いたくて海へのバスに揺られていたり〜意味と解説
〈原文〉
きみに逢う以前のぼくに遭いたくて海へのバスに揺られていたり
解説
作者の永田和宏さんは、1947年生まれで、細胞生物学者という肩書きも持っている日本を代表する歌人です。
妻の河野裕子さんもまた著名な歌人で、闘病の末、2010年に亡くなります。
この「きみに逢う以前のぼくに遭いたくて海へのバスに揺られていたり」という短歌は、若い頃の歌集『メビウスの地平』に収録されている歌です。
文章自体はとても読みやすいものの、その意味となると少し難解にも思える短歌ではないでしょうか。
書き手は、「きみに逢う以前のぼく」に遭いたいと、「海へ」向かうバスに揺られています。
この短歌では、海が、「きみに逢う以前のぼく」に遭うことが可能となる、言わば時間を巻き戻すことのできる舞台と考えられています。
一体、なぜ「海」なのでしょうか。
もし、この「きみ」というのが恋人や妻のことであるなら、若い頃や子供の頃に過ごした場所が海ということなのかもしれません。
懐かしい景色を見たり、故郷に戻ると、ふいに昔の自分に戻ることができます。
また、作中、「あう」という字が、「逢う」と「遭う」の二つに分かれ、違いが強調されています。
最初の「逢う」は、「逢引」のように、どこか恋愛のニュアンスがある人と逢うことで、一方の「遭う」は、災難など好ましくないことへの遭遇の意味合いがあります。
その点から解釈すれば、きみと逢ったことは素晴らしく、きみに逢う以前の自分に遭うことは不幸なことだという意味になります。
たとえば、決して喜ばしいことではないのに、わざわざ「遭う」(たとえば故郷の、まだきみと逢っていない頃の自分を思い出す海に戻って)ことによって、どれほどきみと逢ったあとの自分が掛け替えがなく、尊いものか、ということを再確認したいのかもしれません。
あるいは、「海」は原初の生命の誕生の世界、母なる海(海のなかには母という字が含まれいます)でもあるので、海に帰る(または還る)、というニュアンスが込められているのかもしれません。
とすると、「きみ」とは、自分の生命、人生、という解釈もできるのではないでしょうか。
きみと逢うとは、自分自身と逢う、生を受ける、という意味で、生まれる前の自分と遭うために海に還る途中だ、と。
もしかしたらそれは「死」を象徴しているのかもしれません。
平易な言葉遣いで、また情景も浮かびやすい歌ではありますが、意味を考えると、難解で奥深い面もある歌です。