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歴史

武田信玄の和歌

武田信玄の肖像画

武田信玄(武田晴信はるのぶ)は、戦国時代の武将で、甲斐国を治めた大名です。

この「信玄」とは、出家後の法名で、正式には徳栄軒信玄と言います。

武田信玄は、戦国最強と言われる騎馬隊や、上杉謙信と戦った川中島の戦いが有名ですが、優れた政治家としても力を発揮し、特に、釜無川に信玄堤を築いて氾濫を抑えた治水事業などは、後世に大きな影響を残しています。

和歌に関しては、平安時代中期の歌人で公卿の藤原公任が漢詩・漢文・和歌を集めた『和漢朗詠集』について学び、また『源氏物語』も通読していたと考えられています(参照 : 武田信玄の和歌をめぐって)。

武田信玄にとっては、『源氏物語』『伊勢物語』『古今和歌集』が、重要な古典として位置付けられていたのではないか、と指摘されています。

教養が深く、文武両道を重んじていた武田信玄。中央政権と交渉もあり、教養として和歌をたしなんだ信玄は、文学青年の一面があったと言われています。

21歳のころの信玄は今でいう“文学オタク”だった。仮病を使って引きこもり、僧を招いて30日もの間、和歌に没頭したほどだ。意外や、文学青年なのである。

出典 :「文学オタク」武田信玄VS.和歌を極めた細川幽斎

以下が、文学青年でもあったという信玄の詠んだ和歌になります。

霞むより心もゆらぐ春の日に野べの雲雀ひばりも雲に鳴くなり

軍兵ぐんびょうは物言はずして大将の下知げち聞く時ぞいくさには勝つ

誰も見よ満つればやがて欠く月のいざよふ空や人の世の中

たちならぶ甲斐かいこそなけれ桜花さくらばな松に千歳の色はならはで

清見潟きよみがたそらにも関のあるならば月をとどめて三保の松原

葦垣あしがきのとざしもよしやそのままに清見が関は三保の松原

ただ頼めたのむ八幡やわたの神風に浜松が枝はたふれざらめや

難波江の葦の葉わけの風あれてよしみつ潮の音の寒けさ

君を祈る賀茂のやしろのゆふたすきかけて幾代か我も仕へん

上駻じょうかんの中のかんこそ大将の乗るべき馬と知れや武士もののふ

人は城 人は石垣 人は堀 情けは味方 あだは敵なり

ちなみに、武田信玄の弟の信繁のぶしげも、「歌道にたしなみを持つべきだ」と述べています。

以上、甲斐国の大名である武田信玄の和歌でした。