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概念

「バカの壁」の意味とは

「バカの壁」の意味とは

東京大学名誉教授で、解剖学が専門の養老孟司さんの『バカの壁』という本が、2003年に新潮新書から出版され、400万部を超える社会現象と言えるほどの大ベストセラーとなりました。

この本のタイトルでもある「バカの壁」という言葉は、同年の流行語大賞で特別賞も受賞します。

本の帯文には、「『話せば分かる』なんて大ウソ!」。また、書店のPOPには、「バカの壁は誰にでもある」という作者の言葉が記され、『バカの壁』自体は読んだことがないという人でも、その文字の連なりは目にしたことがあるかもしれません。

養老孟司『バカの壁』

創刊したばかりだった「新潮新書」シリーズのイメージを作ったと言っても過言ではない、養老孟司さんの『バカの壁』。このタイトルは、養老さんが最初に書いた『形を読む』で使われた「馬鹿の壁」という表現に由来するそうです。

それでは、一体、この「バカの壁」とは、どういった意味なのでしょうか。以下、「バカの壁」の意味合いに関し、なるべくわかりやすく解説したいと思います。

バカの壁=人間には、理解できない「壁」がある

まず、結論から言うと、「バカの壁」とは、人間が何かを理解しようとする際、これ以上は理解できない、という壁のことを意味します。

と言っても抽象的すぎると思うので、具体例として、『バカの壁』の冒頭、養老孟司さんが実際に体験した薬学部の学生たちのエピソードが挙げたいと思います。

薬学部の学生に、ある妊婦の出産までを追ったドキュメンタリー番組を見せたときのことでした。

女子学生のほとんどは、その番組の感想として、「新しい発見がたくさんありました」という反応が返ってきました。一方、男子学生は、皆一様に、「こんなことは既に保健の授業で知っているようなことばかりだ」と答えます。

同じ「出産」に関する映像を見ても、女子学生は、「新しい発見がたくさんあった」と言い、男子学生は、「こんなことはもう知っている」という感想を抱いた、と。

なぜ、こういった理解の違いが生まれたのでしょうか。

おそらく、男子学生は、「出産」ということに実感を持ちたくなかったのではないか、だから、同じ番組を見ても、大雑把に捉え、細部に目をつぶり、より自分ごととして捉え、積極的な姿勢で見ていた女子学生のように「発見」ができなかった。

養老孟司さんは、「つまり、自分が知りたくないことについては自主的に情報を遮断してしまっている。ここに壁が存在しています」と説き、これが「バカの壁」の一種だと指摘します。

女の子はいずれ自分たちが出産することもあると思っているから、真剣に細部までビデオを見る。自分の身に置き換えてみれば、そこで登場する妊婦の痛みや喜びといった感情も伝わってくるでしょう。従って、様々なディテールにも興味が湧きます。

一方で男たちは「そんなの知らんよ」という態度です。

彼らにとっては、目の前の映像は、これまでの知識をなぞったものに過ぎない。本当は、色々と知らない場面、情報が詰まっているはずなのに、それを見ずに「わかっている」と言う。

出典 : 養老孟司『バカの壁』

知りたくないことに関しては、情報が遮断され、その瞬間、より繊細な部分は見えなくなる。こんなことはもう知っているよ、と思い込んで遮断する。この「もう知っている」と思う背後には、これ以上は知りたくない、という抵抗感もあれば、すでに全てを知っている、という傲慢さもあるのかもしれません。

出産までのドキュメンタリーを見ていた男子学生たちの場合も、ざっくりと大枠で「知っている」と思っていたから、その映像を見ても、新しい発見はなかったのでしょう。それは、知りたくない、という心理的抵抗もあったのかもしれません。

バカの壁の存在によって、理解しようという意思も働かなくなる。

この話は、学生たちと出産のドキュメンタリーの関係性を事例として「バカの壁」を解説したものですが、人それぞれ、様々な場所で似たようなことは起きているでしょう。

人間は、物事を理解するに当たり、「もう知らなくていい」「知りたくない」「考えたくない」となれば、自ずと壁が築かれ、情報が遮断される、理解が深まらなくなる、このことを、養老さんは「バカの壁」と呼びます。

知識としては入ってきても、より理解しようとする、という部分に壁が立ちはだかる。「知っているよ」と言っても、本当にわかっているか、と振り返ってみると、実際は、だいぶあやふやなものなのではないでしょうか。

これは、「他人とのコミュニケーション」の問題でも言えるでしょう。

たとえば、「こういうことがあってさ」という悩み相談や愚痴を言われたとして、その内容が、どれくらい深く理解できるか、理解しようとするか、というのは、受け手が実際に経験したかどうかによっても違うでしょうし、「わかるよ」と言いつつも、「わかったふり」でごまかすことも多いのではないでしょうか。

どれだけ話しても、実は伝わっていない、お互いのあいだには、「バカの壁」が存在する。

これは、人間というのは誰もが見てきた風景も経験も感受性も違うことや、あるいは、言葉によるコミュニケーションの限界という側面もあるでしょう。

他者にせよ、物事にせよ、こういった「理解の限界」が、「バカの壁」であり、帯文にある、「話せば分かる、なんて大ウソ」というのも、まさに、この理解の限界をわかりやすく一言で表した言葉と言えるでしょう。

他者とのコミュニケーションに関して言えば、精神科医の名越康文さんと養老孟司さんの対談のなかで、相手のことがわからない問題について、養老さんは、「そもそもわかる必要がない」と指摘します。

養老:僕に言わせると、なんで(相手を)わからなきゃいけないのかという話なんですけどね。わからなくたって、お互いがぶつからなければいいだけなんですよ。自分はこっち行くけど、あなたはあっちへ行く。そういうことでまったく問題ないし、人ってそういうものだと思いますけどね。

名越:要するに、養老先生とすれば、わからなくてもいいから、同じ方向へ行ってぶつからないように、少し調整するということですか。

養老:ポイントは実はそこだけ。相手が出しているサインのようなものがいくつかあるはずなんで。それだけ押さえておけばいいんです。「あ、これが出たときは話しかけないほうがいいかな」とか、「今は近づかないほうがいいな」とかね。だって、本当に他人をわかろうなんて思ったら、えらい大変なことになってしまいますよ。

出典 : 養老孟司×名越康文「《話せばわかる》は大ウソです。」

相手のことがわからない、というのは、それほど悪いことではなく、そもそも最初から「わからない」ものだと思っていると、多少なりとも気が楽になるのではないでしょうか。

この「相手のことがわからない」のはなぜでしょうか。養老さんは、「猫」を具体例として、それはお互いの「前提」が違うからだと解説します。

養老:「わかる方法」じゃなくて「わからない理由」を先に言ってしまうと、多くは前提が違うからです。前提が違う人に、いくら言葉を投げても、相手に刺さるはずがない。人は前提の違う話をされると錯乱するんですよ。猫が苦手な人に、猫のおもしろさを延々と語っても永遠に伝わらない。なんでこの人、せっかくこんなに話をしているのに、言葉を尽くしているのに、反応が薄いんだろう、こっちの言っていることが心に刺さらないんだろうって。当たり前なんです。猫に関する前提が根本から違うんだから。

(中略)

名越:お互いの前提が違うということを確認しないまま、論争の部分だけでやりあっても、10年議論してもほとんど一致しない。

出典 : 養老孟司×名越康文「《話せばわかる》は大ウソです。」

お互いに分かり合えない、話が噛み合わない、ということは、友人や恋人、長年連れ添った夫婦、企業など職場の会議、Twitterのようなネット上の議論など、様々な場所で見られます。

その場合、上澄みの部分だけで議論をしているから、おかしなすれ違いが生じる、ということが言えるでしょう。

根っこの部分である、お互いの「前提」が違っていれば、永遠にずれたままとなります。

猫がどれだけ可愛いか、面白いかを説得しようとしても、猫をどういう風に理解し、解釈しているか、という「猫に関する前提」が、猫を苦手な人とは違っている以上、どれほど熱心に訴えても伝わりません。

普通、これは可愛いと思うでしょう、好きだと思うでしょう、という前提で話を進めても、相手が、実はその前提を共有していなかったら、議論は噛み合いません。そして、この「前提」というのは、厳密に言えば、誰もがみんな違っているのではないでしょうか。

これもまた、人と人とのあいだに「バカの壁」がある、と言えるでしょう。

こういった「バカの壁」の存在を自覚しておくだけでも、他者への理解への期待を過剰に持つことによってその都度幻滅したり、腹立たしくなったり、ということも薄まっていくのではないでしょうか。

以上、養老孟司さんの著書より、「バカの壁」という概念の意味の解説でした。