山村暮鳥『自分はいまこそ言おう』
山村暮鳥は、群馬県出身で、明治から大正にかけての詩人、児童文学者です。
山村暮鳥というのは、「静かな山村の夕暮れの空に飛んでいく鳥」という意味に由来するペンネームです。
詩集は、死後に出版された本も含め、5冊出版されています。そのうち、以下は、詩集『風は草木にささやいた』収録の『自分はいまこそ言おう』という詩の全文です。
『自分はいまこそ言おう』
なんであんなにいそぐのだろう
どこまでゆかうとするのだろう
どこで此の道がつきるのだろう
此の生の一本みちがどこかでつきたら
人間はそこでどうなるのだろう
おお此の道はどこまでも人間とともにつきないのではないか
谷間をながれる泉のように
自分はいまこそ言おう
人生はのろさにあれ
のろのろと蝸牛のようであれ
そしてやすまず
一生に二どと通らぬ道なのだからつつしんで
自分は行こうと思うと
この詩は、一つ一つの単語自体は決して意味の難しいものではなく、タイトルにある通り、「自分はいまこそ言おう」という強い思いや考えを綴った詩です。
序盤では、社会における「生」について問いかけています。
なんであんなに急ぐのだろう、どこまで行こうとするのだろう、どこでこの道が尽きるのだろう、と。
冒頭で、「なんで“こんなに”急ぐのだろう」ではなく、「なんで“あんなに”急ぐのだろう」と書いていることから、自分自身というよりも、社会全般のありようについて呟くように発した言葉なのでしょう。
しかし、まもなく「この道」という表現となり、自分も含めた人間全般に対象が広がっていきます。
人々は、なぜあんなに急ぐのか、どこへ行くのか、僕たち人間の進むこの道が、いつか尽きたとき、人間はどうなってしまうのだろう。
そして、暮鳥は気づきます。もしかしたら、この道というのは、人間とともに尽きることはないのではないか、終わることはないのではないか、谷間を流れる泉のように、と。
その発見があり、だからこそ、「自分はいまこそ言おう」と思います。「人生はのろさにあれ」と。
自分の人生で見る景色は、全てがただ一度きり。たとえ同じ場所でも、子供の頃に見る景色と、大人になって見る景色では違って見えるのではないでしょうか。本当は、昨日と今日でさえも異なる。
だからこそ、蝸牛(カタツムリ)のように、ゆっくり歩いていこう、と。
ゆっくりと歩いていくことにこそ、生きることの本質がある、ということを歌っているのかもしれません。
