土佐日記ではなく土左日記という表記は「フィクション」の証か
鎌倉時代、紀貫之が書いた日本初のひらがなを使った日記である『土佐日記』。「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり。」という冒頭は、とても有名な一文です。
男がしていると聞く日記というものを、女の私も試しにしてみよう、ということで女のふりをして紀貫之が書いた日記文学として知られ、土佐守(今の高知県知事のようなポスト)だった紀貫之が自宅の京都に帰るまでの55日間の旅の様子が題材になっています。
当時、日記と言えば、男が公務の記録として漢文で書くのが普通で、一方、女手と呼ばれ、和歌などで使用するとき以外、主に女性が使用する文字だったひらがなは、使われることがありませんでした。
しかし、ひらがなでしか表現することのできない感情があると思ったのか、紀貫之は、「女」として日記をひらがなで書く、という文学的な試みに挑戦、ということが『土佐日記』が女性として書かれた理由です。
このタイトルの『土佐日記』、一般的には、学校でも『土佐日記』の表記で教えられていると思いますが、実は、正式名称は『土左日記』と、「土佐」ではなく「土左」という文字が使われています。
紀貫之の自筆原本は現在残っていません。
ただ、室町時代までは残っていたと考えられ(足利義政に献上されたことまでは記録にあるようです)、写しの写しなども含め、多くの写本が残されました。
特に自筆原本から直接筆写されたと明記されている写本が4点。藤原定家、藤原為家、松木宗綱、三条西実隆によるもので、もっとも重要なものとして、藤原定家と藤原為家(下、画像)の写本が挙げられます。
画像 : 藤原為家版『土左日記』(1236年、筆写)|文化遺産オンライン
写しの写しといった風に重ねていったものは、不正確な部分も多いですが、原本を直接写したものなら、正確性のかなり高い写本となっていることが推測されます。
ただ、たとえば定家本でも、仮名遣いなどは時代を考慮して書き直されたり、読み違いがないように注釈が施されています。
この定家版の『土左日記』の奥書には、紀貫之自筆による題名があると記され、藤原為家も忠実に書き写したそうで、その題名が『土左日記』であることから、正式な表記は『土左日記』だったと考えられています。
土佐国から京までの旅を描いた日記なら、『土佐日記』のはず。ところが、わざとなのか、貫之は『土左日記』とします。
一体なぜ、この「左」の表記にしたのでしょうか。
その理由について、『土左日記』の現代語訳も書いている作家の堀江敏幸さんは、実際の土佐国から意味を離し、『土佐日記(エッセイ)』ではなく、『土左日記(フィクション)』として作者の貫之は書きたかったのではないか、と指摘しています。
土佐国を舞台にして、その土地や人々との関わりに重きを置いた書き物であれば、当然『土佐日記』としたでしょう。それを、あえて、音だけもらって「土左」と表記したのは、この本の内容を実際の土地から離したかっらからだと思います。
現実に密着しすぎないよう、距離を取りたかった。つまり、この物語が最初から「虚構」であることを示す徴(しるし)だということです。
出典 : 堀江敏幸、他『作家と楽しむ古典』
現代でも、ちょっと意味合いに違いはあるかもしれませんが、漫画のなかで「マクドナルド」を「マケドナルド」と表記したり、国名や地名も、現実社会と微妙にずらすために名前を少しだけ変える工夫が行われることがあります。
この『土左日記』という表記も、フィクションであることを示すための言葉遊び的なものだったのかもしれません。
*「土佐」も「土左」も用例としてどちらも使われていた、という指摘もあります。
実際、『土左日記』は、土佐から帰っていく旅の途上で書かれた日記ではなく、京に帰ってから書かれたと言われ、また、随所に虚構と考えられている部分も混ざっているので、日記というより、日記風の文学、というのが正しいのでしょう。
なぜフィクションと言い切れるかというと、研究の結果、『土左日記』のかなりの部分に虚構、つまり作り話が混ぜられているというのが分かってきているからだ。
説明すると長くなるので詳しくは最後の参考文献を見てもらいたいが、たとえば現実の貫之にあたるはずのじいさんが、和歌とかまるっきり苦手な設定になってるとか。月がシチュエーションに合わせて都合よく出たり消えたりするとか。
そう考えると、もしかしたら、紀貫之が女のふりをして日記を書いた、というより、一人の小説家が、自分の経験をもとにし、女性を主人公にした小説を書いた、というほうが近いのかもしれません。