在原業平〜ちはやぶる神代もきかず竜田川からくれなゐに水くくるとは〜現代語訳と意味〜
〈原文〉
ちはやぶる神代もきかず竜田川からくれなゐに水くくるとは
〈現代語訳〉
神々の時代にさえ聞いたことがない、こんな風に竜田川一面に紅葉が散り敷かれ、流れる水を真紅に絞り染めしているなどということは。
概要
狩野探幽『三十六歌仙額(在原業平)』
作者の在原業平は、天長2年(825年)に生まれ、元慶4年(880年)に死没する、平安時代初期から前期の貴族、歌人です。
六歌仙、三十六歌仙の一人で、美男子としても知られ、『伊勢物語』の主人公は、彼がモデルだったと考えられています。

この「ちはやぶる神代もきかず竜田川からくれなゐに水くくるとは」という歌は、
『小倉百人一首』の他、『古今和歌集』『伊勢物語』に収録。
二条后と呼ばれる、清和天皇の女御、藤原高子の前で披露された作品です。
業平と高子とされる男女が駆け落ちをする恋物語が『伊勢物語』に収録されていることから、二人はもともと恋人だったと言われています。
また、この歌は、実際の光景を見たのではなく、秋の竜田川を紅葉が流れていく様が描かれた屏風を前にして詠んだもので、『古今和歌集』の詞書に、「二条の后の春宮の御息所と申しける時に、御屏風に竜田川に紅葉流れたる形を描きけるを」とあります。
こうした屏風に描かれた大和絵(日本の風景や風俗を描いた絵)を主題にし、屏風絵に添えられる歌のことを、屏風歌と言います。
大和絵の多くは屏風に描かれて室内の装飾に用いられました。
絵には和歌(=屏風歌:びょうぶうた)が添えられており、その歌は能書家が清書したものでした。
屏風は絵と歌と書を同時に鑑賞できる芸術作品だったのです。
屏風歌は、平安時代に誕生したと考えられています。
この屏風歌として知られる在原業平の「ちはやぶる神代もきかず竜田川からくれなゐに水くくるとは」という歌を、現代語訳すると「神々の時代にさえ聞いたことがない、こんな風に竜田川一面に紅葉が散り敷かれ、流れる水を真紅に絞り染めしているなどということは。」となります。
こんなに素晴らしい紅葉が敷き詰められた竜田川の様子は、神々の時代にも聞いたことはない、と屏風に描かれている大和絵を前に、半ば大げさに誇張して驚いているようにさえ見えます。
新調した屏風絵に、祈りを込めるような想いで歌われたのではないかという指摘もあり、祈りゆえに、いっそう誇張した表現になったのかもしれません。
冒頭の「ちはやぶる」とは、神にかかる枕詞で、「ちはやふる」とも言います。勢いの激しい様子を意味し、漢字では「千早振る」と書きます。
動詞形として「千早ぶ」という言葉があり、「勢い激しく振る舞う、強暴になる」という意味です。
次の「神代」というのは、遠い昔、不思議なことが起こり得た神話時代のことを指し、「神代もきかず」とは、神々の時代にも聞いたことがない、といった意味合いとなります。
地名である「竜田川」とは、大和国(現在の奈良県)の生駒郡を流れる川で、紅葉の名所として知られています。
動画 : 竜田川の紅葉
紅葉の色を表現した「からくれなゐ」とは、漢字で書くと「唐(韓)紅」と表記し、唐や韓の国など、大陸から渡ってきた紅、という意味です。
その頃の日本の染料では出せないような「真紅」を指します。それほどに鮮やかで真っ赤な紅葉だったのでしょう。
最後の「水くくるとは」というのは、くくり染め、今の「絞り染め」のことで、川を布に見立て、紅葉が散り敷かれる様を、くくり染めに喩えています。
布を部分的に、つまんで糸でくくって染め残しをつくり、いろいろの模様を染めること。また、そのように染めたもの。絞り染。くくしぞめ。くくし。
この和歌は、百人一首のなかで、有名な人気の作品でもあります。