日本文学

中原中也『一つのメルヘン』

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中原中也『一つのメルヘン』

中原中也の代表作の一つとして知られる作品に、『一つのメルヘン』というタイトルの詩があります。

この『一つのメルヘン』は、掲載している教科書もあるので、学校で読んだという人も多いかもしれません。

一つのメルヘン

秋の夜は、はるかの彼方かなたに、
小石ばかりの、河原があつて、
それに陽は、さらさらと
さらさらと射してゐるのでありました。

陽といつても、まるで硅石けいせきか何かのやうで、
非常な個体の粉末のやうで、
さればこそ、さらさらと
かすかな音を立ててもゐるのでした。

さて小石の上に、今しも一つの蝶がとまり、
淡い、それでゐてくつきりとした
影を落としてゐるのでした。

やがてその蝶がみえなくなると、いつのまにか、
今迄流れてもゐなかつた川床に、水は
さらさらと、さらさらと流れてゐるのでありました……

出典 : 中原中也『中原中也詩集』(新潮文庫)

この『一つのメルヘン』の制作時期に関しては、1936年9月〜10月頃と見られ、その年の11月発行の雑誌「文芸汎論はんろん」で発表。その後、詩集『在りし日の歌』に収録されます。

メルヘンとは、空想と現実が一体となったおとぎ話や童話という意味で、ドイツ語が語源の言葉です。タイトルから推測するに、ある一つの空想世界を描いた詩であることが伺えます。

詩の冒頭から、映像的な描写が行われます。

秋の夜、はるか彼方に、小石ばかりの河原があり、その河原には、陽がさらさらと射しています。

秋の夜なのに、陽が射している、というのは、一見すると矛盾のように映ります。月光ならまだしも、なぜ、夜なのに「陽」が射すのでしょうか。

秋の夜というと、寂しく切ない季節であり、時間帯でもあります。もしかしたら、その夜の世界に浸っていると、はるか彼方の空想の世界、あるいは、半分夢のような世界が現れ、その世界というのは、こういった情景である、ということを描いているのかもしれません。

あるいは、「詩の生まれる世界」というのを象徴的に表現しているのかもしれません。

この射している陽は、いわゆる光ではなく、珪石か何かのようで(珪石とは、ガラスや陶磁器の原料としても使われる岩石のこと)、固体の粉末のようでもあり、さらさらと音を立てています。

そして、そんな不思議な光の射している、小石ばかりがある河原の小石に、ふいにどこからか訪れた、一羽の蝶がとまります。

この蝶の影に関する、「淡い、それでゐてくつきりとした」という表現も、矛盾を含みながらも、説得力を持った詩的な表現となっています。

淡いにもかかわらず、あるいはそれゆえに、くっきりとした影を落とす、一羽の蝶。

やがてその蝶が去っていくと、流れていなかった川床に、いつのまにか、さらさらと水が流れていた、というダイナミックで幻想的な変化の様子が、『一つのメルヘン』という詩世界では描かれています。

どことなく夢を見ているような情景が広がっていることもあり、読み終わって、はっと我に帰ってきたような感覚さえも抱きます。

小石ばかりの河原、射している陽、ふいに訪れて去ってゆく蝶の存在、いつのまにか流れている川の水、この一つ一つの象徴に、どういった意味合いがあるのかは、解釈が難しく、むしろ、解釈しようとせずに、一つの詩的な空間として受け取ってみる、というほうがよいのかもしれません。

友人であり、恋敵としても宿命的な存在であった評論家の小林秀雄は、この詩について、「彼の最も美しい遺品」と称しています。

彼の誠実が、彼を疲労させ、憔悴させる。彼は悲しげに放心の歌を歌ふ。川原が見える、蝶々が見える。だが、中原は首をふる。いや、いや、これは「一つのメルヘン」だと。私には、彼の最も美しい遺品に思はれるのだが。

出典 : 小林秀雄「中原中也の思い出」

また、同じく友人の大岡昇平は、『一つのメルヘン』に関して、「これは一つのドラマであり、むしろ一つの異教的な天地創造神話ではないかと思われる」と指摘しています。

確かに、一羽の蝶がとまり、去っていく。気づくと水が流れている、というのは、何かの始まりのような神秘性や創造性も感じられるかもしれません。