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中原中也と酒癖

中原中也と酒癖

四谷花園アパート

詩人の中原中也は、叙情的で美しくも悲しげな詩を数多く残し、若くして亡くなった、今でも読者の多い戦前の日本を代表する詩人です。

しかし、その一方で、体も小さく弱いながらに喧嘩っ早く、酒癖が悪い、仕事も全くしないで詩作に耽っていた、という点も、ある種の魅力として語り継がれています。

仕事もせずに文学に浸かっている息子を見兼ねた母親によって、中原中也は、26歳のときに、遠い親戚関係にある孝子とお見合い結婚をすることとなります。

性格的に気性の激しい中也ですが、孝子とは、よほど気が合ったのか、珍しく縁談は円滑に進んだようです。

中原中也と、妻の孝子

二人が結婚したとき、中也が26歳、孝子は20歳、1933年12月のことで、結婚式は、湯田温泉の西村屋という温泉旅館で行われます。

妻の孝子は、中也のことに関して、こんな風に語っていたことからも、よほど中也の気性への対応に慣れていた様子が伺えます。

お母さん、あなたは中也さんがガミガミいうときに、真面目になって聞いてじゃからいけんのです。私のようにケタケタ笑っていらっしゃいよ。そうすると、向こうは怒っているのがはりあいがないから、怒るのをやめますよ。

中原中也の妻、孝子

結婚後、中原中也は、仲良くなりたいと思うとすぐ家の近所に引っ越すもともとの癖もあり、友人で装幀家の青山二郎の住む「四谷花園アパート」に夫婦で移り住み、青山二郎や周辺の人々と親交を深めます。

四谷花園アパートは、新宿の歓楽街のすぐ近くにあり、近所には怪しい雰囲気の建物や旅館なども多く建ち並んでいたものの、ひとたび青山の部屋の扉を開くと、室内には新宿界隈であることを忘れさせるほどの趣ある空間が広がっていました。

芸術の世界に造詣の深かった青山の部屋には、数多くの若い作家たちが溜まり場として集まり、青山の家は、冗談交じりに「青山学院」などと呼ばれることもありました。

同じアパートに引っ越した中也も、「ジイちゃん(青山のあだ名)、いる?」と声をかけては、パジャマ姿のままよく「青山学院」を訪れます。

中也は、青山の部屋を訪れるたびに、室内に置かれた英国製の古く味わい深い椅子に座ります。その椅子が中也の定位置でしたが、ただ、残念ながら椅子は外国製のため大ぶりで、150cmほどとも言われる身長だった中也の足では足先が届かず、椅子の上にあぐらで座りました。

外国製の椅子にあぐら、という格好で座りながら、中也は酒を飲み、誰に頼まれるわけでもないのに、自ら自作の詩の朗読を始めます。

しゃがれた声に悲しみを滲ませた声、想いを込めるように抑揚をつけながら、未発表の新作を披露したそうです。

しかし、中也の詩を誰も待ち望んではいなかったので、中也が朗読を始めるたびに周囲は「またか……」と辟易し、部屋中に白けた空気が流れるのが常でした。

酒癖の悪さ

中原中也は、二人でいるときは心根の優しい性格でしたが、酒癖の悪さは有名で、特に大勢の人たちと一緒の席で酒が入ると、性格は暴力的に一変しました。

中也の酒癖の悪さを物語る有名なエピソードがあります。

ある日、いつものように若い作家たちが四谷花園アパートに集まって酒を飲み、議論を交わしていました。ところが、ひょんなことから、中也は自分よりも年下の評論家中村光夫と口論になります。

詩人の中也にとっては、論理で蓋をしようとする「評論家」の類は日頃から腹立たしい存在でもあったのでしょう。

中也と中村の口論は、たちまちエスカレートしていき、ついに沸点に到達した中也は、中村に向かって「殺すぞ!」と声を荒げると、手に持っていたビール瓶で中村の頭を殴りつけます。

その中也の暴挙に、中村も酔いがまわって感覚が麻痺していたのか、「だからどうした」とばかりに平然とした素振りで応じ、いったん騒動は収まるように思えましたが、しかし、その様子に怒りをあらわにしたのが、部屋の主である青山でした。

普段は温厚な青山だったものの、このときは珍しく感情をむき出しにし、「殺すつもりなら、なぜ縁ではなく横っ腹で殴った。卑怯だぞ!」と中也を怒鳴りつけたのです。

青山の怒声に、中也ははっと黙り込み、右手にビール瓶をぶら下げたまま、その場に立ち尽くし、そして、中村と青山の顔を交互に見比べると、中也は「俺は悲しい!」と叫んで床に泣き伏せてしまいます。

中也の泣き叫ぶ声が、部屋中に響き、中也の声に、不思議とその場の誰もが悲しく、中村の恨みがましい想いも薄れ、もつれた糸がほどけていくように部屋は静まり返っていったそうです。

ウインゾア

中原中也の酒癖の話で言えば、時代は少し遡りますが、ウインゾアの話もあります。

当時、東京の京橋を渡った八重洲通りの手前に、ウインゾアという一軒のモダンな酒場がありました。

ウインゾアは、1931年(昭和6年)の暮れ頃に開店し、骨董の収集や美術評論に定評のあった青山二郎がこだわりを持ってつくった店でした。

店は、青山二郎の周辺に集まる多くの文学仲間たちの溜まり場にもなり、小林秀雄や井伏鱒二、大岡昇平といった著名な若い作家たちの他に、骨董屋から工芸職人、画家など様々な表現者たちが集まりました。

店舗の広さは10坪程度。3分の2が煉瓦敷きで、英国風の凝った内装が特徴でした。

酒場の主人は、音楽家でもあった青山の義弟夫婦が請け負い、手伝いの女性として中也の昔の恋人だった長谷川泰子も一時働いていました。その集いの場であったウインゾアが、まもなく閉店を余儀なくされることとなります。

青山は、「店の常連だった中原によって潰された」と述懐します。

その頃中也は、日が暮れてまもなくすると、誰かと話したいがために(青山曰く「私塾でも開いたように」)ウインゾアを訪れます。そして、ほとんど店に酒代も落とさずに毎晩のように遅くまで居座りました。

挙句、見知らぬ客の話でさえも割り込んでいっては喧嘩を繰り広げ、たちの悪いことに、中也はそのことを「詩人の使命」とさえ考えていたようです。

とにかく中原中也の対人関係では、常識というものが通用しなかった。隣り合った他人の話にも、それが場にふさわしいものでなければ口をはさみこむ。いや、彼は酒場で話される様々な声に反応して、すべての違和感を取り払おうとした。それも彼独特の毒舌で違和感を振り払おうとするのだから、他人はこれを拒否する。

そこで喧嘩がはじまるわけだが、腕力は弱かった。なぐられるのはいつも彼の方であった。けれども彼は性懲りもなく、関係のない他人の会話にも割り込んでいく。それが詩人に課せられた使命と考えていたから始末が悪い。

村上護『四谷花園アパート』

中也が誰かれ構わず喧嘩を吹っかけたために、当然ながら、ウインゾアから客は離れていきます。

結果、一人の小柄な詩人によってウインゾアはわずか一年足らずで閉店せざるを得なくなったのでした。

ウインゾアと中原中也の関係性について、この気難しい中也に寄り添った数少ない友人の一人である安原喜弘は、次のように振り返っています。

ここに毎晩ほとんど主なる顔ぶれが揃うのであるが、彼はどうしてもそこへ行くことを主張するのである。私はなんとかして行かせまいと力を尽くすのだが、結局は彼の体はそこのドアを開けてしまうのである。私のいないときは尚更である。

そこで彼の毒舌はいやが上にも散乱し、そして最後にはいつもの乱酔と乱闘に終る日々が続くのである。こうして彼はかつて彼の最も親しかった友人達とまた最も憎み合わねばならなかったのだ。

安原喜弘『中原中也の手紙』

中原中也は、その寂しさゆえにウインゾアを求め、その寂しさゆえに乱酔し、その寂しさゆえに自らの手で自らの居場所を壊してしまうのでした。

他にも、坂口安吾につかみかかったり、太宰治に絡んだりと、色々なエピソードが残されており、中也の酒癖の悪さや絡み癖は相当だったようです。