日本文学

世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし 意味(現代語訳)

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世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし   在原業平

〈原文〉

世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし

〈現代語訳〉

もし世の中にはまったく桜がなかったなら、春を過ごす人の心はのどかだっただろうに。

概要と解説

作者の在原業平ありわらのなりひらは、平安時代初期から前期の貴族・歌人です。

歌仙かせん、三十六歌仙(他に、柿本人麻呂かきのもとのひとまろ山部赤人やまべのあかひと大伴家持おおとものやかもち、小野小町など)の一人で、平安時代を代表する歌人としてだけでなく、美男子としても知られています。

勅撰和歌集『古今和歌集』では、約30首の和歌が選ばれ、『伊勢物語』では、在原業平が主人公のモデルになっていると考えられています。

伊勢物語の冒頭伊勢物語の冒頭 〈原文〉 昔、男初冠ういこうぶりして、平城の京春日かすがの里に、しるよしして、狩にいにけり。その里に、いとなまめ...

この「世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし」という和歌は、『古今和歌集』に収録され、惟喬親王これたかしんのうの別荘で開かれたお花見の際に詠まれたものであることが『伊勢物語』に記されています。

現代語訳すれば、「もし世の中にまったく桜がなかったなら、桜の花が咲くのを待ち望んだり、散っていくことを悲しんだりすることもなく、春のひとの心はもっとのどかだっただろうに」といった意味になります。

作品の冒頭、「世の中に」のあとの「たえて」とは、「全く、全然」を意味し、「なかりせば」は、「もしなかったなら」となります。

この「せば…….まし」というのは、実際とは異なることを想像し、語る際に使われます。

たえて桜のなかりせば〜のどけからまし(全く桜がなかったなら、のどかだっただろうに)。

春というのは、寒く厳しい冬が終わってぽかぽかと陽気に包まれ、風も心地よく、本来ならのどかに過ごせる季節です。

しかし、人々は、桜が咲くのを待ち望んだり、桜の花びらが散っていくのを悲しみ、心は一向に落ち着きません。

もし桜さえなかったら、もっと春の心はのどかだったのに、という逆説的な表現で、それほど心をざわつかせる桜の花の悩ましくも素晴らしい魅力を歌っています。

ああ、もうこんなに美しくも儚い桜がなかったら、もっと穏やかだった春なのに、と思いながら、その花の魅力を表現している、というわけです。

この感覚は、現代でもとても分かりやすく共感しやすいのではないでしょうか。

この桜に関する業平の「世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし」を受け、詠まれた返歌として、作者の名前は不明ですが、お供のなかの一人の「散ればこそいとど桜はめでたけれ憂き世になにか久しかるべき」という歌があります。

この返歌を現代語訳すれば、「桜は散るからこそいっそう素晴らしいのでしょう、この辛い世の中でいつまでも変わらずにいるものなど何があるでしょうか(いや、ありません)」となります。

世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし 在原業平

散ればこそいとど桜はめでたけれ憂き世になにか久しかるべき 詠み人知らず

業平が、「桜さえなければ、春の人の心はもっと穏やかだっただろうに(それくらい美しい)」と歌えば、返歌で、「桜は散るからこそいっそう素晴らしいのでしょう、この世にいつまでも変わらないものなどありませんよ」と返します。

業平の和歌に、すでに悩ましくさせるほど美しくも儚く魅力的な桜、という意味合いは込められているでしょう。

そのため、返歌は、少し重複するような、分かっていることをあえて繰り返しているようにも思えますが、両者を合わせることで、より死生観として、この世の無常感まで広げられる、と解釈できるかもしれません。