芥川龍之介と夏目漱石の関係と手紙
作家の芥川龍之介は、1892年(明治25年)に生まれ、1927年(昭和2年)に、35歳で服毒自殺をします。
自殺の動機としては、遺書にあった、「ただぼんやりとした不安」という言葉がよく知られています。
その芥川龍之介と、明治の代表的な文豪の夏目漱石のあいだには、弟子と師匠という関係があり、夏目漱石は、芥川に励ましの手紙を送っています。
夏目漱石は、1867年(慶応3年)に生まれ、1916年(大正5年)末に胃潰瘍が死因で亡くなりますが、晩年の漱石と出会った若い芥川龍之介は、(厳密に「師弟関係」と呼べるかどうかは難しいですが)漱石を「先生」として生涯に渡って尊敬し続けます。
夏目漱石
芥川龍之介
夏目漱石は、手紙魔として知られ、生涯で多くの手紙を残しているのですが、その数は、分かっているだけでもおよそ2500通だと言います。
その一通として、1916年、夏目漱石晩年の49歳の頃の手紙には、まだ東京大学英文科の学生だった芥川龍之介に宛てて送られた、励ましや賞賛(芥川の書いた『鼻』を賞賛)の手紙もあります。
芥川は、前年の12月に、紹介者とともに漱石のもとを訪れ、漱石のことを先生として慕うようになります。
芥川龍之介にとって漱石は生涯に渡って師であり、『葬儀記』『漱石先生の話』など、夏目漱石に関する文章も残しています。
二人の関係のきっかけとなる出会いは1915年12月で、以降、漱石宅で行われた木曜会にも顔を出すようになったそうです。
大正5年(1916)2月19日朝、漱石は筆と墨を使い巻紙にすらすらと達筆の文字を書き連ねていた。東京帝国大学の英文科に在籍する芥川龍之介に宛てて、手紙を書いているのだった。漱石の傍らには、読み終えたばかりの同人誌『新思潮』(第4次)の創刊号が置いてあった。
龍之介は、前年12月に紹介者とともに漱石山房を訪れ、以来、木曜会(漱石の教え子や門下生が集まって様々な議論をした会合)に顔を出すようになった新しい漱石の門下生であった。
それまで芥川は、同人誌に発表した自信作の『羅生門』が全く相手にされず、仲間内からも評価されず、小説を書くのをやめたらどうか、と言ってくる手紙まで届くほどの無名の文学青年で、本人もすっかり自信を失っていました。
しかし、芥川らが送った『鼻』の掲載されている同人誌『新思潮』を読んだ夏目漱石からの感想の手紙や出会いが、芥川の作家人生にとって大きな分岐点となります。
夏目漱石が、若き芥川龍之介に宛てて送った手紙(2通目以降は久米正雄と二人に宛てた手紙)には、「大変面白い」「文壇で類のない作家になれる」という賞賛の感想や、「みんなが黙過するでしょう。そんな事に頓着しないで、ずんずん進みなさい」といった励ましの言葉が綴られています。
あなたのものは大変面白いと思います。落ち着きがあって巫山戯ていなくって、自然そのままの可笑味がおっとり出ている所に上品な趣があります。それから材料が非常に新しいのが眼につきます。文章が要領を得てよく整っています。敬服しました。
ああいうものをこれから二三十並べて御覧なさい。文壇で類のない作家になれます。しかし「鼻」だけでは恐らく多数の人の眼に触れないでしょう。触れてもみんなが黙過するでしょう。そんな事に頓着しないで、ずんずん御進みなさい。群衆は眼中に置かない方が身体の薬です。(1916年2月19日)
*
勉強をしますか、何か書きますか。君方は新時代の作家になるつもりでしょう。僕もそのつもりであなた方の将来を見ています。
どうぞ偉くなって下さい。しかしむやみにあせってはいけません。ただ牛のように図々しく進んで行くのが大事です。
(中略)
私はこんな長い手紙をただ書くのです。永い日が何時までもつづいてどうしても日が暮れないという証拠に書くのです。そういう心持の中に入っている自分を君らに紹介するために書くのです。
それからそういう心持でいる事を自分で味って見るために書くのです。日は長いのです。四方は蝉の声で埋っています。(1916年8月21日)
*
この手紙をもう一本君らに上げます。君らの手紙があまりに溌剌としているので、無精の僕ももう一度君らに向かって何かいいたくなったのです。いわば君らの若々しい青春の気が老人の僕を若返らせたのです。
(中略)
君方は能く本を読むから感心です。しかもそれを軽蔑し得るために読むんだから偉い。(ひやかすのじゃありません、誉めてるんです)。
(中略)
ああ、そうだ、そうだ、芥川君の作物の事だ。大変神経を悩ませているように久米君(*久米正雄)も自分も書いて来たが、それは受け合います。君の作物はちゃんと手腕がきまっているのです。決してある程度以下には書こうとしても書けないからです。
久米君の方は好いものを書く代わりに時としては、どっかり落ちないとも限らないように思えますが、君の方はそんな訳のあり得ない作風ですから大丈夫です。
(中略)
牛になる事はどうしても必要です。われわれはとかく馬になりたがるが、牛にはなかなかなり切れないです。僕のような老獪なものでも、ただいま牛と馬とつがって孕める事ある相の子位な程度のものです。
あせっては不可せん。頭を悪くしては不可せん。根気ずくでお出でなさい。世の中は根気の前に頭を下げる事を知っていますが、火花の前には一瞬の記憶しか与えてくれません。うんうん死ぬまで押すのです。それだけです。
決して相手を拵えてそれを押しちゃ不可せん。相手はいくらでも後から後からと出て来ます。そうしてわれわれを悩ませます。牛は超然として押して行くのです。
何を押すかと聞くなら申します。人間を押すのです。文士を押すのではありません。(1916年8月24日)
出典 : 夏目漱石『漱石書簡集』
作品への賞賛や、その道を進みなさいといった夏目漱石の手紙は、自信を失っていた文学青年の背中を相当に押してくれたのではないでしょうか。
また、手紙による励ましだけでなく、芥川龍之介のもとに執筆依頼が舞い込むようになり、これも漱石が推薦したと言われています。