宮沢賢治『春と修羅』『注文の多い料理店』初版本と心象スケッチ
宮沢賢治は、1896年に岩手県で生まれ、1933年に37歳で亡くなる、日本の詩人であり童話作家です。
宮沢賢治と言えば、『銀河鉄道の夜』や『風の又三郎』、『雨ニモマケズ』など、今でこそ誰もが知っている作家ですが、賢治の生前に出版された本は、詩集の『春と修羅』と、童話集の『注文の多い料理店』の二冊だけでした。
宮沢賢治にとって最初の本となる詩集『春と修羅』は、1924年、自費出版として刊行。『春と修羅』は、一千部発行したものの、ほとんど売れず、売れ残った分は賢治が買取り、親戚に配ったようです。
現存している初版本は、数十部しかなく、署名入りとなるとほとんどないそうです。
賢治自身は、この『春と修羅』は、「詩集」というよりも、「心象スケッチ」と称していたようです。
手紙のなかで、『春と修羅』に関して、到底詩ではなく、ほんの粗硬(粗くて硬い、という意味)な「心象のスケッチ」と表現しています。
前に私の自費で出した「春と修羅」も、亦それからあと只今まで書き付けてあるものも、これらはみんな到底詩ではありません。私がこれから、何とかして完成したいと思って居ります、或る心理学的な仕事の仕度に、正統な勉強の許されない間、境遇の許す限り、機会のある度毎に、いろいろな条件の下で書き取って置く、ほんの粗硬な心象のスケッチでしかありません。(1925年、2月9日)
出典 : 宮沢賢治の手紙(森佐一宛て)
実際に、『春と修羅』の表紙にも、「心象スケッチ」という言葉が記載されています。
画像 :『新潮日本文学アルバム 宮沢賢治』 春と修羅 初版
この宮沢賢治の「心象スケッチ」とは、単純に、自分自身の心に浮かんだ内側の光景を描くという意味ではなく、個人の内側と繋がっている、宇宙や無限、すなわち普遍的なものをスケッチする、という意味として考えていたようです。
賢治はきっぱりと、これは「詩」ではなく「心象のスケッチ」だと述べています。
では、「心象スケッチ」とは何でしょうか。賢治の言う「心象スケッチ」とは、ただ単に一人の人間の心のうちを描くという意味ではないようです。心象とは、宇宙や無限の時間につながるものであり、人間の心象を描くということは、個人的なものを超えて普遍的なものをスケッチすることだと賢治は考えていました。
賢治の生前に刊行された、もう一冊の本『注文の多い料理店』は、『春と修羅』出版と同じく1924年暮れに出版され、装丁と挿絵は、菊池武雄が担当します。
菊池は、岩手出身で当時福岡で中学校教諭を勤め、図画を教えていましたが、同僚の紹介で賢治の作品の装丁と挿絵を依頼されます。
当初、菊池はその依頼を断ったものの、賢治に、職業画家でないほうがいいと励まされ、装丁と挿絵を引き受けます(挿絵は、菊池が自由に構想したようです)。
ちなみに、力士の頂仙之助(菊池政彦)さんは、この装丁と挿絵を担当した菊池のひ孫に当たります。
画像 :『新潮日本文学アルバム 宮沢賢治』 注文の多い料理店 初版
残念ながら、両方とも売れ行きは芳しくなかったものの、一部では知られ、詩人の中原中也も、宮沢賢治の詩を高く評価していました。
私にはこれら彼の作品が、大正十三年頃、つまり「春と修羅」が出た頃に認められなかったといふことは、むしろ不思議である。私がこの本を初めて知ったのは大正十四年の暮であったかその翌年の初めであったか、とまれ寒い頃であった。由来(*ママ)この書は私の愛読書となった。何冊か買って、友人の所へ持って行ったのであった。
彼が認められること余りに遅かったのは、広告不充分のためであらうか。彼が東京に住んでゐなかったためであらうか。詩人として以外に、職業、つまり教職にあったためであらうか。所謂文壇交游がなかったためであらうか。それともそれ等の事情の取合せに因ってであらうか。多分その何れかであり又、何れかの取合せの故でもあらう。要するに不思議な運命のそれ自体単純にして、それを織成す無限に複雑な因子の離合の間に、今や我々に既に分ったことは、宮沢賢治は死後間もなく認めらるるに至ったといふことである。
出典 : 中原中也『中原中也全集 第四巻』
賢治と中也は実際に会ったことはなかったものの、わざわざ『春と修羅』を買って友人にも配ったというのだから、相当に惹かれるものがあったのでしょう。
この『春と修羅』と『注文の多い料理店』は、のちに初版本の復刻版が刊行されています。