『赤毛のアン』の名言
児童文学として有名な『赤毛のアン』のアンと言えば、どのような人物を連想するでしょうか。
みなしごの少女、それとも赤毛でおしゃべりな少女でしょうか。
日本では、少女を主人公とした児童書のイメージも強い『赤毛のアン』ですが、実は全十巻(短編集含む)に及ぶ長編の小説でもあります。
少女時代のアンだけでなく、大人になったアンの個性豊かな子どもたちや、第一次世界大戦中の暮らしの描写などもあり、読者は、まるで同じ家に暮らしているかのように、アンの生涯を垣間見ることができます。
作者は、作品の舞台でもあるカナダのプリンス・エドワード島で生まれ育った、女性作家のルーシー・モード・モンゴメリ。
時代背景は、1880年〜1890年代頃で、11歳のアン・シャーリーが、孤児院からグリーン・ゲイブルズ(カスバート家の屋号)に住むマシュー・カスバートとマリラ・カスバートという二人の老兄妹に引き取られるシーンによって物語は幕を開けます。
作中では、心が伸びやかになったり、優しい気持ちになれる名言、名台詞もたくさん登場します。
この記事では、講談社より出版された掛川恭子さん翻訳の『赤毛のアン』第1巻から選んだ名言を紹介したいと思います。
「なにからなにまですっかりわかっていたら、半分もおもしろくないんじゃないかしら。想像力の広がる余地が、全然なくなっちゃうもの。」(アン/p37)
出典 : モンゴメリ『赤毛のアン〈1〉』
孤児院から引き取るはずだった「男の子」を駅に迎えにきたマシュー。
しかし、駅で待っていたのは一人の赤毛の少女。内気な彼は、アンに「男の子じゃないからいらない」などと言えるはずもなく、アンを連れてグリーン・ゲイブルズへと馬車を走らせます。
道中、アンは持ち前の想像力を思いっきり広げ、マシューを圧倒しますが、彼女の目を通した世界の美しさには独特の輝きがあります。
それは、「想像力の広がる余地」がなくては到底前向きになれなかったような、アンの過去のせいかもしれません。
その想像が生み出す景色はいつも美しく、身の上話を聞くまでは、暗い過去など想像もできないような自由さで周囲を魅了します。
この「想像力の広がる余地」という言葉は、幸せな暮らしをするようになった後も、アンを深く支え続けます。
「でもね、どこの子でもないただのアンとくらべたら、グリーン・ゲイブルズのアンのほうが、百万倍もすてきよ。そうでしょ?」(アン/p113)
出典 : モンゴメリ『赤毛のアン〈1〉』
アンの想像力は、外の世界だけでなく、自身の外見や人生にも向けられます。
赤毛であることや、生い立ちに引け目を感じているアンは、「もしも髪が真夜中の闇のように黒かったら」「レディー・コーデリア・フィッツジェラルドという名前だったら」と楽しい夢に浸ります。
でも、それより彼女が本当に嬉しいのは、想像なしでも確かな「グリーン・ゲイブルズのアン」であること。
このときは、まだ自信なさげに言い聞かせていますが、年月を重ねるごとにその実感は大きくなり、グリーン・ゲイブルズの家に帰るシーンは何度も何度も喜びとともに描かれます。
「楽しみの半分は、それを待っていることにあるのよ。(……)なにも期待しないより、期待して失望したほうが、はるかにましよ」(アン/p170)
出典 : モンゴメリ『赤毛のアン〈1〉』
教会の日曜学校でピクニックの開催が告知され、アンは大興奮の日々を過ごします。
普段でさえアンのおしゃべりと感情の起伏に追いつけないマリラは、「そんなことじゃ、この先の人生で、山ほどの失望に出合うことになるだろうね」と呆れますが、アンは自信満々にこう答えました。
言葉通り、アンは常に期待や夢を携えながら人生を歩み、山ほどの失望に出合いながらも、それを超える喜びにも胸を震わせます。
アンのこの考え方は周囲を巻き込み、悲しみのなかにいる登場人物たちが、期待することを思い出していくサイドストーリーがたくさん描かれます。
「ロマンチックなことを、全部忘れてしまうんじゃないよ、アン」マシューが恥ずかしそうにささやいた。「少しだけなら悪くない──度がすぎては困るがね。だが、少しだけは取っておくんだよ、アン、少しだけは」(マシュー/p403)
出典 : モンゴメリ『赤毛のアン〈1〉』
アンは友人たちと、その年頃の少女たちが好むように、ロマンチックな出来事を演じて遊びます。
その日、題材に選ばれたのはアーサー王物語の死のシーン。
アンが演じるエレイン姫は、小舟に寝そべり、深く目を閉じたまま、ロマンチックに川下へ流れます。
しかし、舟には次第に水が入り、美しい情景から一転、たまたま通りかかったクラスメートのギルバートが助けてくれなければ、溺れていたかもしれません。
マリラにこっぴどく叱られたアンは、「ロマンチックになろうとしてもむりだっていう結論に達した」と落ち込みますが、マリラが部屋を出たあと、マシューはこっそりアンのロマンチックさを引き留めます。
どんなことがあってもマシューは常にアンの味方であり、理解者であり、親友でもあったのです。
「わたしたちだってお金持ちよ(……)わたしは自分以外の人にはなりたくないわ(……)模造パールのネックレスをした、グリーン・ゲイブルズのアンで十分。マシューはこのネックレスを、あのマダム・ピンクの宝石に負けないくらいの愛情をこめて、わたしに贈ってくれたんですもの」(アン/p481〜p482)
出典 : モンゴメリ『赤毛のアン〈1〉』
短期大学の試験にトップで合格し、入学を控えたアンは、家を離れる直前にホテルで開かれたコンサートで、詩の暗唱を披露します。
都会からも社交界からも多くの参加者があり、その豪華絢爛な雰囲気に飲み込まれる田舎組の面々。
帰り道、「ねえ、お金持ちになりたいと思わない?」と友人のジェーンに問われたアンは、きっぱりと答えます。
マシューとマリラの元へ来るまで、自分以外の人になる想像に心を支えられていたアンは、人からの愛情を受け取る力も一層深いものがあるのでしょう。
ちなみに、「お金持ちになりたいと思わない?」と問いかけたジェーン・アンドリューズは、その後、大金持ちのところへ嫁ぎ、夢を叶えます。
「その、なんだ、男の子が一ダースいるより、おまえひとりのほうがいいよ、アン」マシューがアンの手をとって、やさしく撫でた。「よく覚えておおき──男の子が一ダースかかっても、おまえにはかなわないんだよ。その、なんだ、エイブリー奨学金をもらったのは、確か、男の子じゃなかったろう? 女の子だったよ。うちの子だ。わしの自慢の、うちの子だよ」(マシュー/p513〜p514)
出典 : モンゴメリ『赤毛のアン〈1〉』
赤毛のアンについて語るとき、このシーンは避けることのできない永遠の名シーンと言えるでしょう。
そもそも、グリーン・ゲイブルズで男の子をもらおうとしたのは、マシューの力仕事を手伝ってほしいからでした。
作品内で具体的な年齢は明記されていませんが、マシューはアンを引き取った時点で60歳ほどだと推測されます。
心臓発作を何度か起こしたりしながらも休もうとせず、「わたしが、もともともらうつもりだった男の子だったら」と考えこむアンに、マシューはやさしく微笑みかけます。
この会話の翌日、マシューは亡くなります。
「自然は、わたくしたちの傷ついた心を癒してくれる力を持っているの。その力に心を閉ざしてはいけないわ。」(ミセス・アラン/p522)
出典 : モンゴメリ『赤毛のアン〈1〉』
マシューの死後、アンは初めての喪失に深く悲しみます。
そして、悲しみながらも生きていけること、それどころか、再び喜びを感じてしまうことに戸惑います。
アボンリーの牧師の奥さんであるミセス・アランは、アンが信頼し尊敬する女性のひとり。マシューはちょっと遠くにいるだけ、と話し、アンが感じている世界の美しさ、喜びを包み込みます。
「クイーンを卒業したときは、未来がまっすぐな一本道のように、目の前にどこまでものびているようだったわ。(……)でも、今その道には、曲がり角があるの。曲がり角のむこうになにがあるか、今はわからないけど、きっとすばらしいものが待っていると信じることにしたわ。」(アン/p 533)
出典 : モンゴメリ『赤毛のアン〈1〉』
クイーン短期大学で優秀な成績を修め、エイブリー奨学金を勝ち取ったアンは、そのまま学位取得のためレッドモンド大学に進学する予定でした。
しかし、マシューが亡くなり、マリラも目の持病や頭痛に苦しむ姿を見て、進学を中止し、グリーン・ゲイブルズに留まることに決めます。
学校で教師をしながら、独学で学ぶという道を選んだアン。
これは、マリラとグリーン・ゲイブルズを守るための選択を、マリラに告げる際のアンの言葉です。
口数はだいぶ少なくなったアンですが、なにごとにも期待をする生き方、そして少しのロマンチックを携えて、新たな一歩に胸を膨らませます。
以上、『赤毛のアン』第1巻の名言の紹介でした。
ちなみに、日本で製作されたアニメ版『赤毛のアン(1979年放送)』の監督は、まだスタジオジブリが設立する前の高畑勲さんです。
赤毛のアン 第1話「マシュウ・カスバート驚く」
この作品には、途中まで作画スタッフとして宮崎駿さんも参加しています。