中原中也と西田幾多郎
Eテレ『100分de名著』では、西田幾多郎の『善の研究』がテーマで、彼の提唱した「純粋経験」というものが取り上げられました。解説は、批評家の若松英輔さんです。
とても分かりやすく、面白い回でした。
西田幾多郎の「純粋経験」という考え方は、物事が言葉中心主義になっている近代的価値観に対する、一つの回答だったのでしょう。
言葉を筆頭に、数字、肩書き、先入観、あらゆるフィルターが幾重にも重なって、世界そのものを純粋に経験することが難しくなっている。それどころか、そのフィルター越しに見た世界のほうを現実だと思い込んでいる。
そうではなく、言葉以前の世界、純粋経験のほうに西田は重きを置きます。
この西田幾多郎の考え方は、「民藝」の生みの親である柳宗悦とも共通しています。
西田幾多郎「純粋経験を妨げるもの」
①思想 ②思慮分別 ③判断
柳宗悦「じかに見ることを妨げるもの」
①思想 ②嗜好 ③習慣
この習慣というのが興味深く、たとえば、同じ散歩道でも、昨日と今日では全てが違います。しかし、これを「いつもの」と、習慣的な判断をすることで、その二度と訪れない瞬間を「じかに見ること」はできなくなります。
また、これは番組では触れられていませんが、詩人の中原中也も、詩の世界で純粋経験を表現しようとした一人でした。
「これが手だ」と、「手」といふ名辞を口にする前に感じてゐる手、その手が深く感じられてゐればよい。
まさに、この一文などは純粋経験のことを書いていますし、別の文章でも、西田幾多郎の名前を出し、自らの詩論について綴っています。
もともと「神が在る」といふことは、私の直観に根ざすのだ。もつと適確に云ふなら、西田幾多郎の「純粋意識」に根ざすのだ。
純粋な経験をしたり、その経験をもとに詩や音楽や映像を表現することは確かに難しいでしょう。
しかし、純粋経験というものがあり、自分の見ているこれは「純粋経験ではない」、何かのフィルターによって、何かしらの先入観で解釈してしまっている、という感覚を忘れずに持っておくことくらいはできるのかもしれません。