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西洋の画家

ドガ『バレエの舞台稽古』『エトワール』

ドガ『バレエの舞台稽古』と『エトワール』

エドガー・ドガ『自画像』 1855年

エドガー・ドガは、1834年生まれで、1917年に83歳で亡くなるフランスの画家で、印象派の画家として知られています。

ドガは、フランスの銀行家の家に生まれ、裕福な家庭に育ちます。と言っても、新興のブルジョワであったことから、ドガが生まれた当初はそれほど裕福でもなかったようです。

長男であったドガは、父親から跡取りとして期待されるも、パリ大学の法学部を中退し、本格的に画家を目指します。

印象派展に何度も出品し、印象派の画家として数えられることの多いドガですが、他の印象派の画家と比較すると、戸外制作も行わず、デッサンを重視し、古典から学んだ画家で、印象派展には参加していたものの、「印象派」と括られることを本人は嫌っていたと言います。

印象派展のほぼすべてに参加したことから、印象派のひとりとしてくくられるドガだが、戸外制作でスケッチをすることなく、デッサンと古典的な技法に基づいて絵を描いた。

また、自然がまとう光ではなく、バレエやオペラ、競馬場、都市の生活に関心を向けたという点でも同派のほかの作家とは一線を画す。「踊り子の画家」とも呼ばれ、バレエの稽古の様子や舞台裏などを題材とした作品を数多く手がける。

出典 : エドガー・ドガ|美術手帖

ドガが大切にしていた言葉は、尊敬する新古典主義を代表する画家のアングルによる、「優れた画家になるためには、たくさん線を引くことだ」です。

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なぜ、古典的な芸術観を要していたドガが、新しさを求める印象派の画家たちと共鳴したのでしょうか。

それは、表現手法というよりは、旧態依然としたサロンへの対抗心によるものでした。

ドガ『バレエの舞台稽古』

1874年、若い画家たちが、サロンに対抗し、ナダールの写真スタジオで独立した展示会を開きます。後に「第1回印象派展」と呼ばれることになる展示会に、ドガも、10作品を出品します。

エドガー・ドガ『バレエの舞台稽古』 1874年

この『バレエの舞台稽古』も、この第一回印象派展に出品された作品の一つで、ドガが40歳くらいの頃の絵画になります。

静けさのある色味の世界で、バレエの踊り子たちが、美しい舞姿で舞台稽古に励み、またシューズの紐を縛ったり、隅でだらしなく休憩している様子なども描かれています。

ドガは、バレエの踊り子をよく絵の題材にし、モネやルノワールのような一瞬の光と色彩ではなく、一瞬の動きを捉えようとしました。

この時代、バレエの世界で少女たちが目指していたのは単純に芸術としてバレエで成功することではなく、パトロンを探す手段として踊る、という側面があり、近代社会のなかで、貧しい少女が、「見られる」対象として踊り、中産階級の男性が「見る」という構造があったようです。

ドガ『エトワール(舞台の踊り子)』

ドガの代表作として有名な『エトワール(『舞台の踊り子』)』に、踊る少女と見る男性という対照性がくっきりと描かれています。

エドガー・ドガ『エトワール』 1876年

エトワールとは、星、すなわち花形のスターを意味します。

この絵は、バレエの舞台稽古ではなく、踊り子の本公演の様子で、ライトアップされたエトワールの左背後には、タキシードを着た男性の姿が、ちょうど光と闇のように対照的に描かれています。

この男性が、エトワールのパトロンなのでしょう。

ドガの『エトワール』という絵が、「怖い」という声もあるのは、当時、一説には娼婦と同じくらいに身分が低かったとされる踊り子が、背後のパトロンに媚を売るためにも、必死に踊っている、という社会的な側面を、暗に描いているからだという指摘もあります。

大胆な構図においては、日本の浮世絵の影響も見られます。

ちなみに、この『エトワール』は、1877年開催の第3回印象派展に出品されています。

以上、印象派の画家エドガー・ドガの絵画『バレエの舞台稽古』及び『エトワール』 の意味と解説でした。