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日本文化

平家物語と遊郭の禿(かむろ)とは

平家物語と遊郭の禿(かむろ)とは

平家物語の禿とは

日本の古典文学を代表する『平家物語』は、平家の栄華と没落、新たに台頭した武士たちを描いた軍記物語で、成立年の詳細は不明であるものの、鎌倉時代の前期に成立したと考えられています。

平家物語の作者に関しても諸説あり、最古の記述としては、鎌倉末期の吉田兼好の『徒然草』のなかで、信濃前司行長しなののぜんじゆきながなる人物が『平家物語』の作者である、という記載があります。

平家物語では、冒頭の「祇園精舎ぎおんしょうじゃの鐘の声、諸行無常の響きあり。」という一節がよく知られています。

平家物語の冒頭平家物語の冒頭 〈原文〉 祇園精舎ぎおんしょうじゃの鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹さらそうじゅの花の色、盛者必衰じょうしゃ...

この平家物語では、「禿かむろ」(または「かぶろ」)という存在が描かれ、2012年放送の大河ドラマの『平清盛』や、2021年放送のアニメ版『平家物語』でも登場します。

アニメ版『平家物語』(原作は、古川日出男が現代語訳した『平家物語』で、主人公はオリジナルキャラクターで琵琶法師の少女「びわ」)を観ると、第一話の冒頭シーンで、真っ赤な身なりにおかっぱ姿の不気味な子供たちが描かれ、「かぶろ」という名前がセリフのなかに出てきます。

アニメ版『平家物語』 フジテレビ

この禿かむろとは、京の都の市中をまわり、平家の悪口を言っている者を見つけたら取り締まる、という言わばスパイや秘密警察のような存在で、その子らの特徴が、赤い衣でおかっぱ頭の子供たちでした。禿という字は、髪がないという意味で、現代で言う「おかっぱ頭」のことを指し、「禿童」と書くこともあります。

実際、平家物語の巻一「禿髪」に、このスパイ部隊のような禿に関する記述があり、また、平清盛の義弟である平時忠の「平家にあらずんば人にあらず」という彼らの驕りを象徴する有名な言葉も登場します。

参考 : 「平家にあらずんば人にあらず」と言ったのは平清盛、ではなかった!犯人は性格が正反対な人物

以下、平家物語において、禿のことが描かれている「禿髪」の原文と現代語訳になります。

第一節

〈原文〉

かくて清盛公、仁安三年十一月十一日、歳五十一にて、病に侵され、存命のためにたちまちに出家入道す。法名は、浄海とこそ名乘られけれ。

そのしるしにや、宿病たちどころに癒えて、天命を全うす。人の従いつくこと、吹く風の草木をなびかすがごとし。世のあまねく仰げること、降る雨の国土を潤すに同じ。六波羅殿の御一家の君達といひてんしかば、花族も英雄も、面をむかへ、肩を並ぶる人なし。されば、入道相国の小舅、平大納言時忠卿の宣ひけるは、

「この一門にあらざらむ人は、みな人非人にんぴにんなるべし」

とぞ宣ひける。かかりしかば、いかなる人も相構へて、そのゆかりに結ぼほれむとぞしける。衣紋のかきやう、烏帽子のためやうよりはじめて、何事も六波羅様といひてんければ、一天四海の人、みなこれをまなぶ。

〈現代語訳〉

こうして清盛公は、仁安三年十一月十一日、歳五十一で病気に侵され、命を守るために、ただちに出家入道する。法名は、浄海と名乗られた。

そのげんであろうか、慢性の病気がたちどころに回復して、天寿を全うする。人の従属することは、吹く風が草木をなびかせるようである。世の人が仰ぐことは、降る雨が国土をうるおすのと同じである。六波羅殿の御一家の若様とさえいえば、花族も英雄も、面と向って、肩をならべる者はない。そこで、入道相国の小舅にあたる平大納言時忠卿がおっしゃるには、

「この一門でない人は、みな、人でない」

とおっしゃった。このような状態なので、どのような人も、なんとかしてその縁につながろうとした。衣の着方、烏帽子の折り方をはじめとして、何事も六波羅風といえば、天下の人々は、みな、これをまねる。

第二節

〈原文〉

いかなる賢王賢主の御政、摂政関白の御成敗をも、世にあまされたるほどのいたづら者などの、かたはらに寄り合ひて、なにとなう誹り傾け申す事は常のならひなれども、この禅門世ざかりのほどは、いささかゆるがせに申す者なし。

その故は入道相国のはかりごとに、十四五六の童を三百人揃へて、髪をかぶろに切りまはし、赤き直垂を着せて召し使はれけるが、京中に満ち満ちて往反しけり。おのづから平家の御事をあしざまに申す者あれば、一人聞きいださぬほどこそありけれ、余党にふれめぐらし、かの家に乱入し、資材雑具を追捕し、その奴をからめて、六波羅殿へ率て参る。

されば目に見、心に知るといへども、言葉にあらはして申す者なし。六波羅殿のかぶろとだに言ひてしかば、道を過ぐる馬車も、皆よきてぞ通りける。禁門を出入すといへども、姓名を尋ねらるるに及ばず。京師の長吏、これがために目をそばむと見えたり。

〈現代語訳〉

また、どのような賢王、賢主の政治も、摂政関白の政治も、世間に取り残された、つまらない者などが、人の聞いていない所でなんとなく悪口を言い非難するのは、よくある習慣であるが、この入道の全盛期には、少しも悪く言う者はいなかった。

その理由は、入道相国の謀として、十四歳から十六歳の子供を三百人そろえて、髪を短く切りそろえ、赤い直垂を着せて、召し使われていたが、洛中に満ちあふれて往き来した。たまたま平家の悪く言う者があれば、心の中に秘めているならまだしも、人に話したりすると、その人が仲間に知らせ回り、その家に乱入して、家財道具を没収し、悪口を言う者を捕らえ、六波羅に引っ立てて参上する。

それで、目で見、心に思うことがあっても、言葉に出して言う者はいない。六波羅殿の禿とさえいえば、道を行く馬や車も避けて通った。皇居の門を出入りするときも姓名を尋ねられることはない。都の高官は、これのせいで、目をそむけているというように見えた。

こんな風にはっきりと、禿に関する説明が記載されています。

禿は、14歳から16歳の子供が300人。髪を短く切り揃え、赤い直垂ひたたれを着せ、京の市中を徘徊させたこと。平家のことを悪く言う者があったら、家にも乱入し、資材を没収し、当人も捕らえるなど厳しく取り締まった、ということが書かれ、相当に恐れられていた様子が描かれています。

見た目も印象的であり、密告者のような役割であったことを考えると、現代の我々から見ても相当に不気味で怖い存在に映ります。

ただし、この禿が、本当に実在したかどうか、確たることはわかっていません。

平家物語以外で、禿が登場することはなく、平家物語が軍記物語であることから、創作であったのではないかという指摘もあります。

遊女の世界の禿

平家物語に描かれる密偵の禿以外に、「禿」という言葉で歴史用語として使われる代表的な事例に、江戸時代の遊郭の禿があります。

江戸時代の遊郭に住み込む遊女見習いの少女のことを禿と呼び、この禿は、7、8歳頃に遊郭に売られてきたり、遊女の娘であったり、といった場合があったようです。

花魁おいらんや太夫といった高級女郎の下につき、小間使いとして働きながら遊女としての立ち居振る舞いやしきたりなどを学び、また、姉女郎から三味線や舞など芸事を教わります。

浮世絵にも、遊女と禿の描かれた絵があります。

東艶斎花翁『桜下遊女と禿図』 1736-1751年

西村重長『舟中の遊女と禿図』 1744-1751年頃

禿のなかでも、特に容姿などから将来の花魁候補と見込まれた禿は、「引っ込み禿」となり、遊女の世話を離れ、茶道や華道といった芸事を学ぶ英才教育を受けることとなります。

成長し、禿を卒業すると、新造しんぞうと呼ばれる立場になり、遊女見習いも後期段階に入り、先輩遊女のもと、本格的に遊女としての接客などを学ぶようになります。

遊郭の禿という名称は、もともと江戸中期くらいまでは髪型がおかっぱ頭だったことに由来し、ただ、髪型を結うようになってからも、禿という呼び名は残ります。

以上、平家物語に出てくるスパイと、遊郭の遊女見習いである「禿」でした。