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日本文化

遊女と遊郭とは

遊女と遊郭とは

日本の古い文化のなかに見られる言葉に、「遊女ゆうじょ」という用語があります。

遊女とは、女性が性を売る、いわゆる「売春婦」を意味する近代以前の呼称で、読み方は、平安時代に「あそび」や「あそびめ」だったものが、のちに音読となって「ゆうじょ」となります。

遊女と書く理由としては、「遊ぶ女」ではなく「客を遊ばせる女」という意味合いとして捉えることが一般的とされています。

遊女というと、江戸時代、遊女たちが生活していた一帯を指す遊郭ゆうかくもよく知られています。

遊郭が成立していくのは、近世に入ってからのことですが、遊女自体の歴史は古く、相当昔から存在します。

日本で、いつ頃から遊女という存在が生まれたか、正確な起源は分かっていませんが、もともと神に仕える巫女から派生したという説や帰化人説などがあります。

遊女に関する記録としては、7世紀後半から8世紀後半にかけ、編纂された『万葉集』に、「遊行女婦うかれめ」という語があり、この頃、すでに各地を巡りながら宴席などで歌舞をし、夜の行為も行う遊女の存在が認められます。

この『万葉集』の記載が、日本でもっとも古い遊女の記録で、「遊行女婦」が、平安時代に「遊女」という言葉になります。

平安時代、遊女は、船で移動し、旅をしながら、昼は楽器を奏で、美声で唄い、夜には性の相手をする、という芸能者の側面もある存在でした。

その後、時代を経て、遊女は公娼(公に認められた娼婦)となり、豊臣秀吉によって公娼を集めた「遊郭」が始められます。

遊郭とは、公認の遊女屋を集め、周囲を塀や堀などで囲った区画のことを意味します。

遊郭の郭は、城郭の郭と同じ字で、「くるわ」とも読み、「囲われて独立した区域」を指します。

秀吉が遊郭を建設する以前は、遊女が集められている公認の場所はなく、各地に遊女屋があり、遊女屋を放浪して回る遊女も少なくありませんでした。

しかし、秀吉は、日本で初めて公認の区画として遊郭を作ります。

漢字については、「遊郭」以外に「遊廓」と表記する場合がありますが、「郭」と「廓」は、どちらも「かく・くるわ」と読み、両者に違いはありません。

天正13年(1585年)、豊臣秀吉によって大阪、京都に作られます。このとき秀吉が大阪に設けた遊郭は、新町しんまち遊郭(現在の大阪市西区新町)と呼ばれます。

この新町に、大阪各地にあった遊女屋が集まってきたそうです。

また、京都に関しては、二条柳町に遊郭が設けられます(のちに移転が続き、島原遊郭となります)。

以降、遊郭と公娼制は、江戸時代の徳川幕府にも引き継がれていきます。

遊女たちを、遊郭という一つの場所に集めることの目的として、治安を守ること以外に、一般社会とは異なる世界にする、といった意図もあったようです。

日常の世界とは違う、ある種お金さえ出せば誰もが味わえる、非日常的な魅惑の異世界として、遊郭は存在しました。

江戸文化の研究者である田中優子さんは、遊郭の特徴について次のように書いています。

遊女はかつて、旅をしながら芸能を見せ、同時に色を売った女性たちのことだった。遊廓は、その移動する芸能者である遊女が選ばれて集まる場所として造られた。その時から、その空間は現実の社会とは異なる「別世界」として演出された。幕府が新吉原を移転させたのは秩序のためだったが、それが「秩序からはみ出た悪所」を成り立たせ、その非日常が人を惹きつけたのだった。

高尚な文化と生々しい身体の両方が同時にある世界。武士は刀を預け、著名な商人の権威も通用しない、身分の無い世界。大きな金銭が動く所である。複雑なルールが躍動し、それを熟知して「通人」と言われることに面白さを感じるゲーム感覚にも陥る。

出典 : あの人気アニメの舞台はどんなところ? 意外と知らない「遊郭」の実態に迫る

こうした目的のために、遊郭は都市の周辺部に作られ、塀や溝で囲まれ、出入り口は一ヶ所にするなど、外部世界との分離が図られます。

遊郭として最も有名なのは、元和3年(1617年)に江戸にできた吉原よしわら遊郭です。

吉原遊廓の場所は、最初、現在の東京日本橋人形町の江戸日本橋近くにあり、明暦3年(1657年)に生じた江戸の大火事「明暦の大火」の後、浅草寺裏の日本堤に移転します。

前者が元吉原、後者が新吉原と呼ばれています〈参照 : 新吉原遊郭跡に行ってきました①【東京都台東区】〉。

遊女喜多川歌麿『遊女と客』

吉原遊郭は、畑の真ん中に人工的に作られた四角い町で、町の広さは、約270メートル×360メートルほどと考えられています。

吉原遊廓の周囲には、堀があり、日常と切り離された異界のような空間だったそうです。

多くの遊女たちは、貧しい両親によって幼い年齢で身売りされ、この町に連れてこられます(娘を親から買い、遊女屋に売ることを生業とする仲介業者として、女衒ぜげんがいました)。

花廓新宅細見図はなくるわしんたくさいけんず」廓雀堂主人 幕末の吉原案内図

歌川広重『名所江戸百景 廓中東雲かくちゅうしののめ』 1857年

歌川広重の浮世絵『名所江戸百景』では、桜の咲く春の日の出前(東雲)に、朝帰りする江戸っ子の様子が描かれています。

ここで言う「郭中」とは、吉原の門内のことを指します。

花魁おいらんと思われる遊女が、お付きを従え、客の男性を見送っている様子が伺えます。

絵は、東の空が少し紅くなりかかった頃、花魁風の遊女がおつきを二人従えて客を見送っている情景。 遊女は赤いうちかけを羽織り、黒塗りの駒下駄を履いている。格の高さがうかがえる。

男達は皆頬被り頭巾で顔を隠している。女は別れを惜しんでいるらしく、後朝の別れのつれなさが感じられる。また、春の夜明けの風情が情緒深く表現されている。

出典 : 第38景 「廓中東雲」

花魁とは、吉原の遊女のなかでも位の高い、高級娼婦のことを指します。

江戸時代には、公娼のなかでも階級が生まれ、美貌と教養を備えた一部の高級娼婦は、太夫たゆうや花魁と呼ばれていました。

花魁という呼び方は、もともと禿かむろ(遊郭に住む童女)や新造(新人の遊女)たちが、姉女郎のことを「おいらん」と呼んだことから、転じて上位の遊女を、「おいらん」と称するようになったようです。

この「おいらん」という言葉の語源については、妹分たちが、「おいらがの所の姉さん」と呼んだことに由来する説や、古語「おいらかなり」を語源とする説などがあり、はっきりとは分かっていません。

また、「花魁」という漢字は当て字で、他にも、姉妓、姉娼、全盛、妹妓などの字が当てられますが、「花魁」が代表的な漢字として使用されています。

花魁という字は、「物言う花(美女)のかしら」というのが語源です。「魁」とは、「人の長となる人、首長、先頭を行くもの、さきがけ」という意味なので、花魁は、美女の先頭に立つ者といったニュアンスでしょうか。

ただし、花魁自体は、尊称であって、階級の名前ではありません。そのため、遊女のなかで、どの階級が花魁と呼ばれるかといった定義は一定していません。

花魁には、美人や床上手というだけでなく、茶道や華道、和歌、お琴など、教養や芸事にも優れている必要がありました。

歌川豊春『桜下花魁道中図』

この浮世絵は、歌川豊春の『桜下花魁道中図」では、桜の下で行われている花魁道中の花魁とその取り巻きの様子が描かれています。

花魁道中とは、花魁が禿や振袖新造などを引き連れ、揚屋や引手茶屋まで練り歩くことを意味します。

絵に描かれているのは、金帯の花魁を中心に、その両側の少女たちが禿、後ろの青帯の女性が花魁の将来を約束された若手の遊女見習いの振袖新造、一番後ろが、引退した遊女などが務める花魁の身の回りの世話や外部交渉を行う番頭新造と考えられます。

遊郭は、ここまで挙げた吉原遊廓(江戸)、島原遊郭(京都)、新町遊郭(大阪)が、日本三大遊郭です。

この三大遊郭含め、江戸時代の幕府公認の遊郭は全国で25ヶ所以上あり、その他に、非公認の遊郭である「岡場所」も多くありました。

幕府公認の遊郭の世界とは別に、年齢など様々な理由で公娼では働けないことから、非公認の場所で働く遊女として、夜鷹よたか飯盛女めしもりおんな河岸女郎かしじょろうといった呼称も存在します。

たとえば、夜鷹とは、遊郭にいる遊女とは違い、夜間に道端で客引きをした私娼で、安い対価(そば一杯ほどの値段)で売春をしたもぐり娼婦のことを指します。

夜鷹という呼称は、夜間に横行することや、夜鷹という夜行性の鳥の名前に由来するといった説があります〈参照 : 路上や水上で性交?そば一杯の値段で性サービスを提供する「夜鷹」とは〉。

あるいは、私娼の代表として湯女ゆなの存在も挙げられます。

湯女とは、温泉場や風呂屋にいて浴客の世話をした女性のことを意味し、その一部が私娼として売春も行っていました。

湯女といえば、ジブリの代表的な作品で、宮崎駿監督作品の『千と千尋の神隠し』でも、湯女の女性たちが登場します(参照 : 『千と千尋の神隠し』の裏設定は風俗産業。湯女になった千尋)。

ジブリの鈴木プロデューサーや、宮崎駿監督自身も触れていることから、娼婦としての湯女を隠喩的に描いたことは確かでしょう。

客として訪れるのは八百万の神、前半のシーンには、バブルによって作られ、廃れたテーマパークも描かれていますが、強欲な両親の姿に象徴される大人たちによって自然が破壊され、疲れ切った八百万の神たちを、湯女となって働き続け、回復させようとする(しなければいけない)子供たちの代表としての千尋、という解釈もできるかもしれません。

宮崎駿『千と千尋の神隠し』

遊郭は、江戸時代が終わり、近代化が進む明治以降も存続しますが、明治中期より、女性の人権という観点から、廃娼運動が起こります。

さらに戦後、GHQによって公娼制度が廃止され、一時、カフェーや料亭などに看板を変え、「赤線」という呼び名で存続するも、1956年の売春防止法により、公娼は完全に否定されることとなります。

画像 : 明治5年の吉原

明治時代の花魁

ちなみに、この遊女の文化に由来し、今でも子供たちのあいだで行われている風習に、約束の際の指切りげんまんがあります。

指切りげんまんの意味と由来指切りげんまんの意味と由来 子供の頃によく、友達と約束をする際など、小指同士を絡めて「指切りげんまん」をした人も多いのではない...

誰もが子供の頃に一度は行ったことがあるのではないでしょうか、約束のときに、小指を絡めて、「指切りげんまん嘘ついたら針千本飲ます、指切った」と歌のようにして唱えます。

これは、江戸時代に遊郭の遊女たちが、意中の男性に対し、愛の誓いを証明するために自分の髪や血判書、さらには小指を切って渡した、という「心中立て」に由来します。

小指を切る、という心中立ての方法が、遊女のあいだで、実際にどれほど浸透していたかは定かではありません。

ただ、吉原には小指を切る道具一式を売っていた店もあったそうなので、めったにないということもなかったのかもしれません(模造品や、首斬り役人から死体の指を調達するなど「偽物」を渡す遊女もいたそうです)。

この愛の誓いである心中立ての一つの指を切る行為に由来し、約束事をするときの「指切り」の風習が生まれます(謝罪や忠誠を意味する指詰めも、この遊女の風習に由来すると考えられています)。

出典 : 指切りげんまんの意味と由来

この心中立てが、さらに進み、共に死を選ぶ「心中」に発展し、心中が一つの文化のように浸透していきます。

指切りげんまんという気軽に行っている日常的な行為にも、遊女の世界に由来する風習が残っているのでした。

以上、遊女および遊郭の意味や語源でした。