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日本の画家

明治の浦島太郎の絵、山本芳翠『浦島』

明治の浦島太郎の絵、山本芳翠『浦島』

山本芳翠『浦島』 1893〜95年頃 岐阜県美術館所蔵

江戸時代から明治になり、西洋文化が一気に入ってきた際、日本の絵画の世界も西洋画の影響を大きく受けることになります。

日本古来のおとぎ話である「浦島太郎」を描いた、明治時代の画家、山本芳翠ほうすいの『浦島』もまた、西洋画の描き方を吸収しながら、日本文化を描写する、和洋折衷の代表的な作品の一つと言えるでしょう。

絵は、玉手箱を持った浦島太郎が、大きな亀の背中に乗って人間の世界に帰っていく場面です。ピンクの服に、青い装飾のある玉手箱、リアルで生々しい亀の描写。浦島と亀の周りを囲むように、きらきらした飾りをつけた竜宮城の女性や子供たちが見送っている様子も描かれています。

浦島太郎の後方には、白い羽衣を着ている乙姫、それから乙姫が持っている手綱の先には、法螺貝のようなものを掲げた老夫(この老夫はポセイドンではないかという指摘もあります)もいます。

浦島と乙姫の遥か遠くには、うっすらと城が見え、恐らくこの海の彼方に描かれている城が竜宮城なのでしょう。竜宮城は、日本の城ではなく、どこか異国の地の巨大な神殿を思わせる外観となっています。

西洋画の歴史上では、歴史画や宗教画が格式高いものとして扱われてきましたが、この山本芳翠の浦島太郎の絵も、日本の歴史や物語の世界を描いた大作として描きたかったのでしょうか。サイズも、122.0cm×168.0cmと大きな絵です。

それにしても、浦島太郎の端正な甘い顔立ちや長髪の髪型は、現代から見てもいわゆる「イケメン」の雰囲気で、もしハリウッドが浦島太郎を実写映画化するなら、こういった描き方になるのではないかと思えるような近代的かつとても仰々しい描写となっています。

浦島太郎と言えば、「むかし、むかし、浦島は〜」で始まる、文部省唱歌の一つでもあった『浦島太郎』の歌を思い浮かべる人もいるのではないでしょうか。

浦島太郎 童謡 日本の歌

浦島太郎の歌の冒頭は、曲調とともにすんなり思い出せても、その続きや2番以降は知らないという人も少なくないかもしれません。

以下は、『浦島太郎』の歌詞の全文です。

むかしむかし浦島は
助けた亀に連れられて
龍宮城へ来て見れば
絵にもかけない美しさ

乙姫様のごちそうに
鯛やひらめの舞踊り
ただ珍しく面白く
月日のたつのも夢のうち

遊びにあきて気がついて
おいとまごいも そこそこに
帰る途中の楽しみは
みやげにもらった玉手箱

帰って見れば こはいかに
元居た家も村も無く
みちに行きあう人々は
顔も知らない者ばかり

心細さに蓋取れば
あけて悔しき玉手箱
中からぱっと白けむり
たちまち太郎はおじいさん

出典 : 文部省唱歌『浦島太郎』

物語のあらすじが、歌詞のなかにわかりやすく詰め込まれています。

浦島が、助けた亀に連れられ、竜宮城に行くと、それはそれは美しく、乙姫様のごちそうや、魚たちの舞い踊り、楽しく夢のようで、たちまち月日は経ちます。

遊びにも飽き、お暇乞いもそこそこに(お暇乞いは、別れの挨拶のことを意味します)、帰っていく浦島太郎。お土産にもらった玉手箱も楽しみです。

しかし、浦島が帰ってみると、一体これはどうしたことか(こはいかに)、住んでいた家も村もなくなり、知っていた顔の人々もいなくなっています。

心細くなった浦島太郎は、玉手箱の蓋を開けます。すると、ぱっと白い煙が現れ、浦島はおじいさんになってしまうのでした。

子供の頃に聞いた昔話の『浦島太郎』では、この玉手箱は絶対に開けないでくださいと言われたという話もありますが、この唱歌では、その部分は描かれていません。

浦島が玉手箱を開けてしまった理由としては、帰ってみたら知っている人が誰もいない、住んでいた家も村もなく、心細くなって開けたとあります。

教科書を通して広まった浦島太郎の物語では、海のなかで過ごした日々が、人間の世界では700年という長い年月だったとされています(さらに浦島太郎の起源を辿ると、浦嶋子伝説が原話と考えられています)。

尋常小学校 国語読本

月岡芳年『浦島太郎』

浦島太郎のイメージと言うと、この歌や、子供の頃に昔話として聞いていた物語であり、その話を聞きながら想像していた浦島や亀、乙姫や竜宮城と、山本芳翠の描いた『浦島』とでは、ずいぶんと違いがあることから、その落差に違和感を抱く、ということも大いにあるのではないでしょうか。

そして、その落差が、いっそう無国籍的で、異世界のような不思議な魅力を放っていると言えるかもしれません。

葛飾北斎『新版浮絵 浦島竜宮入之図』 江戸時代

ちなみに、山本芳翠が画家を目指すきっかけとなった葛飾北斎が、若い頃に描いた浮絵(西洋画の遠近法を取り入れて描かれた浮世絵)の一つに、浦島太郎が題材の『新版浮絵 浦島竜宮入之図』があります。

この葛飾北斎の作品では、浦島が助けた亀に連れられ、竜宮城に訪れる場面が描かれています。

右手に釣竿を持った男性が浦島で、その隣にいるおじいさんのような相貌の青い服の男性が、どうやら亀のようです。頭の上に亀が乗っていることから、亀の擬人化した姿を描いたものと考えられます。

この葛飾北斎の絵を見ると、山本芳翠の描いた浦島とずいぶんと異なっている様が際立ちます。

それでは、絵の作者である山本芳翠とは、どういった画家なのでしょうか。

山本芳翠は、葛飾北斎が亡くなった年の翌年である1850年(嘉永3年)に現在の岐阜県恵那市えなしに生まれ、1906年(明治39年)に病によって亡くなる、日本洋画の先駆者と言われる洋画家です。

山本芳翠

芳翠は、15歳のときに手にとった葛飾北斎の『北斎漫画』に感化され、画家を志します。当初は南画を目指すものの、その後、洋画に転向し、肖像画で頭角を表します。1878年、パリ万博を契機にフランスに留学し、当地の美術学校でフランスの歴史画家であるジャン=レオン・ジェロームに絵画の技法を学びます。

10年近くの留学から帰国後、国籍不明の妖しさ漂う画風の作品を描いた山本芳翠ですが、その帰国後の作品の一つが、1895年頃に描かれたとされる『浦島』です。

なぜ山本芳翠は、西洋画を描くのに当たって、浦島太郎という極めて日本的なモチーフを採用したのでしょうか。岐阜県美術館の学芸員の方は、「日本人に西洋画を理解させるため、だれもが知っているおとぎ話を画題にした」のではないかと指摘します。

当時の人々にとっては、まだ感覚的として西洋画を受け入れる土壌が出来上がっていなかったことから、受け入れやすい日本のおとぎ話を画題にしたのかもしれません。

ちなみに、現存する山本芳翠の作品数は決して多くはないそうで、そのためか、関連する本や画集というのもほとんどありません。

山本芳翠『若い娘の肖像』 1880年頃 岐阜県美術館

以上、明治時代に描かれた浦島太郎の絵、山本芳翠の『浦島』でした。