昔の県民性を綴った本『人国記』
県民性とは
日本には、47都道府県があり、その地域ごとにそれぞれの歴史や風土、文化があります。
人間は社会的な生き物であり、環境の影響も大きく受けることから、その土地の背景に根ざした考え方や性格、気質などがあると考えられ、こうした各県ごとの特質を「県民性」と呼んでいます。
県民性の例として、たとえば、富山県などの北陸地方では、親鸞の創始した浄土真宗の影響が色濃く残り、地域の人々の考え方や価値観に影響を及ぼしていることから、その地方における、勤勉で忍耐強い県民性に繋がっている、といった指摘があります。
また、山梨県の県民性として、その土地柄ゆえ、農作物に恵まれず、商いに精を出したことから、金に細かく、保守的で見栄っ張り、一方で、勤勉で独立心が強い、という気質がある、という声もあります。
昔から甲州商人のアクの強さで有名な、山梨県。全国で成功を収めた背景には、山が多く平坦地が少ないため農作物が取れにくく、農耕地も限られ、後継ぎである長男以外は地域を出なければならなかったことにも由来。そのため必死で商いに精を出したのである。
その一生懸命な姿は「ずるがしこく商売し、カネにうるさく負けず嫌いで執念深い『メチャカモン』」と呼ばれ、他県人からうとまれた。この性分、今では勤勉で行動力も旺盛、独立心も強いがんばり屋となって継承されている。ただし、カネに細かく保守的で見栄っ張りなのは今でも否めず、付き合い方には要注意。相性が合えば強い信頼関係ができる相手だ。
その他、古くからの都である京都の県民性としては、長きに渡る日本の中心地であったゆえのプライドの高さや、本音と建前を使い分ける、という気質がしばしば取り上げられます。
こういった事例からも分かるように、県民性には、その地域の歴史や風土が密接に関わっています。
県民性の調査としては、過去にNHKが行なった、『日本人の県民性 NHK全国県民意識調査』が有名です。1979年にNHK出版より刊行され、本のなかでは、たとえば、長野県の県民性に関し、次のような記載があります。
全国で4番目に広い長野県は、高山の連なる山国である。長野の人びとは、その風土を愛し、ことあるごとに県歌「信濃の国」を歌う。県が広いだけに地域による意識の違いも目立ち、特に東信地方は全国でも伝統的な傾向の強いところである。しかし、県の南と北の地域の間の対抗意識は、今ではうすれている。
人間関係は親密なほうで、一般に「信州人気質は、理屈っぽく、筋を通すが、その反面協調性に欠ける」といわれているほど協調性に欠けているということはない。ただ、外に向かっては、多少閉鎖的なところがある。人間の区別とか男女間の能力差については、それを認めない傾向があり、またきびしい道徳観を持っている。教育には熱心なほうだが、「教育県だ」といわれるほどの特色は見られなかった。宗教心は他県に比べてややうすく、現実的なものの考え方が特徴である。
出典 : 『日本人の県民性 NHK全国県民意識調査』
以上のように、県民性というのは、ある種のステレオタイプではあり、割と新しい言葉ではあるものの(古くは「お国柄」と言っていた)、一般的に知られた概念と言えるでしょう。
古典『人国記』
県民性という言葉自体は、比較的新しいものですが、風土が人間の性格に影響を与える、という発想は昔からあり、その土地ごとの人情や気質を記した、まさに当時の県民性に関する古い書物に、『人国記』という本があります。
この『人国記』の制作時期と作者は、現在ともに不明ではあるものの、室町時代のものではないかと考えられ、作者に関しては、室町幕府の5代執権の北条時頼という説もあります。
戦国武将である、甲斐国の武田信玄が『人国記』を愛読したことでも知られ、信玄は、重要と考えた国に関する記述を抜粋し、扇の面に記し、腰に差すと、ときおり抜き出しては、軍学研鑽のための夜咄の種として、家来に聞かせたという言い伝えが残っています。
戦にあたって、「相手を知る」ということを重要視したのでしょう。
その後、江戸時代になると、地図や説明文を追記した、改訂版『新・人国記』が、地誌学者の関祖衡によって記されます。
それでは、具体的に、『人国記』の内容について簡単に紹介したいと思います。
たとえば、『人国記』のなかで、現在の京都府南部である山城国の項目には、どういった記述があるのでしょうか。
赤が山城国、緑が畿内
ちなみに、山城国は、古くは「山代」「山背」という表記で、7世紀に「山背国」として誕生します。「山背国」という国名は、平城京から見た際に、奈良山の後ろにあることに由来します。
その後、794年、平安京の命名に当たり、桓武天皇が、山河が自然と城をなす景勝であるということから、「山城国」に改変します。
以下は、『人国記』に記載された、山城国の人々の人情や風俗、気質となります。
山城の国の風俗は、男女ともにその言葉、自然と*清濁わかりよくして、たとえば流水のとどこおること無うして、いさぎよきが如し。世俗に、その国風はその水をもって知るということ誠なるか。城州はその水潔うして、万色を染むるに、その色余国に*はるばる違えること、古より今に至るまでかくの如し。人の膚の滑らかなることまたこれかくの如し。女の姿、音声の尋常なること並ぶ国なし。然れども武士の風俗、好ましからざること、*中々子細に及ばざるなり。その所以を考うるに、王城の地にして常に管弦の楽をもてあそぶことを見馴れ、あるいは商売の人らは、遠国波島までも偽りをもって実とする習いなれば、殊に王城の地かくの如し。されば常に実を忘れて虚を談ずるをもって、世を渡るを本とす。
たまたま*実儀の人ありといえども、その邪に推し隠され、あるいはその実を隠して、その風儀勤むるの類ありと見えたり。かくの如きの武士、千人に一人なれども、この人もあとは形の如くの悪しき形儀になるなり。然れば総じてこの国の風俗、実を用い勤むる人少なきゆえに、義理を知らざるなり。義理を知らざるゆえに、勇臆の儀を沙汰すれども、他所のことに心得るなり。
兎角この気質を離れざるなり。自然に好き人あるは、口伝。
出典 :『人国記』
冒頭の「清濁わかりよく」とは、「発音」のことを意味しています。
発音が、「まるで水の流れるようではっきりとして潔く、またその土地に流れる水のように肌もなめらかで、女性の姿や声音なども素晴らしく、他に並ぶ国はない。」とあります。
城州とは、山城国の異称で、「はるばる違える」とは、「遥かに違う」という意味です。
日本というのが、水に恵まれた国だからか、「その国風はその水をもって知る」と言われていたようで、これは、水が素晴らしく清い場所では、その地の人々もよい、という意味合いでしょうか。
また、「中々子細に及ばざるなり」とは、「今更言うまでもない」という意味。「実義の人」とは、「真心や誠意のある人」を指します。
山城国の人々は素晴らしいものの、武士の風俗は、言うまでもなく、と付け加えるほど、好ましくなかったようです。
一つの国の解説が、大体これくらいの文章量か、もうちょっと少ない程度(作者の興味なのか、情報量の問題なのか、少ない地域はだいぶ少なくなっています)で、岩波文庫版『人国記』では、注釈の意味に関する記載はありますが、現在のところ、現代語訳は出版されていません。
ただ、一つ一つの国の説明は短く、注釈も見れば、ざっくりと内容はわかるので、自分の住んでいる県や地域に関して読んでみると面白いかもしれません。
今なら大批判を浴びるのではないかと思われるほど、相当な毒舌を振るっている地域も少なくありません。「現代なら炎上必至」と解説する記事もあり(参照 : 現代なら炎上必至!日本各地のお国柄をまとめた「六十六州人国記」が毒舌すぎる【東北&関東甲信越編】)、こういった事情からも、現代語訳はちょっと、という躊躇いがあるのかもしれません。
一方、『人国記』で絶賛されている地域に信濃国があります。
信濃国が今のどこに当たるかと言うと、長野県であり、信濃国が、あまりに絶賛されているので、『人国記』の作者は信濃の人間ではないか、という説もあるほどです。
以下が、『人国記』の信濃国に関する記述の全文です。
信濃の国の風俗は、武士の風俗天下一なり。尤も百姓・町人の風儀もその律義なること、伊賀・伊勢・志摩の風俗に五畿内を添へたるよりは猶も上なり。所以は義理強くして、臆することなく、百人に九十人は律儀なり。たまたま臆病なる者ありといへども、それも他国の形の如くの人と云ふ程に有らずして、適々 の物語にも、弱みの比興の事はこれ無し。若し比興の事を述べ亦なすときんば、人皆これを悪みて交わらざる故に、柔弱の人も、後には義理を知りて、国風となるなり。都て知恵も余国よりは勝れたり。然れども辺鄙の国なる故に、かたくへなき事も多しといへども、善十にして、悪一、二の風俗なり。
出典 :『人国記』
冒頭から、「武士の風俗天下一なり」とわかりやすく絶賛され、町人も律儀。また、「比興」とは、「卑怯」のことで、卑怯はなく、もし卑怯なことがあっても、人々は皆これを憎むので、義理堅くなっていく、と。
知恵も他国より優れているなど、とにかく絶賛の嵐です。
ただし、信濃国は都から離れた辺鄙な国ゆえ、「かたくへなし」、これは「頑固で強情」という意味で、要は、田舎なので頑固者が多い、ということでしょうが、その部分は多少悪い面であったとしても、「善十にして、悪一、二の風俗なり」と文章は締められます。
以上、昔の「県民性」を綴った『人国記』の内容の一部の紹介でした。
県民性と言うと、今ではちょっとのどかな印象もありますが、先に触れたように、戦国武将の武田信玄も重宝した本であり、また、第二次世界大戦の際、米国が日本人の特質を理解するために調査研究を行なった、文化人類学者ルース・ベネディクトの『菊と刀』も知られているように、戦に於いて、その地域の人々の性質を把握することは、当時から重要な視点でもあったのかもしれません。