平家物語の作者
日本を代表する古典の『平家物語』は、鎌倉時代に成立した軍記物語で、平家の凋落と、新しい武士階級の台頭や人間模様を描いた文学作品です。
この作品は、「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」という冒頭が有名で、文字通り、仏教的な無常観が根底にあります。
中世から近世にかけ、琵琶法師によって『平家物語』は語られ、平家と源氏の争いで失われた武士たちの鎮魂のために、旅をしながら語り継がれます。
琵琶法師とは、平安時代から見られた琵琶を演奏する盲目の僧や、放浪芸人を指し、後者の琵琶法師が、鎌倉時代の中期以降に『平家物語』を語るようになります。
琵琶法師の語りの主な聴き手は武士でした。
琵琶を弾く盲目、僧体の人。琵琶の伴奏により経文を唱えた盲僧の流れと、琵琶の伴奏により叙事詩を謡った盲目の放浪芸人の流れがあり、後者は鎌倉中期以降、もっぱら平家物語を語るようになった。びわの法師。
この『平家物語』自体が、いつ頃できたかという正確な制作年数は現在も不明ですが、鎌倉時代の初期には、現在のような形になっていたと考えられています。
また、『平家物語』は作者も不詳で、この作者が一体誰か、というのも古くから様々な説があります。
作者に関するもっとも有力な説として知られているのが、兼好法師の書いた随筆『徒然草』に由来する、信濃前司行長作者説です。
兼好法師の『徒然草』には、後鳥羽院の御代(12世紀末~13世紀初)に、信濃前司行長という人物が『平家物語』を書いた、という記載があります。
後鳥羽院の御時、信濃前司行長、稽古の誉ありけるが、楽府の御論義の番にめされて、七徳の舞をふたつ忘れたりければ、五徳の冠者と異名をつきにけるを、心うき事にして、学問をすてゝ遁世したりけるを、慈鎮和尚、一芸ある者をば、下部までもめしをきて、不便にせさせ給ければ、此信濃入道を扶持し給けり。
此行長入道、平家物語を作りて、生仏といひける盲目に教てかたらせけり。さて、山門のことをことにゆゝしくかけり。九郎判官の事はくはしく知て書のせたり。
蒲冠者の事はよくしらざりけるにや、おほくのことゞもをしるしもらせり。武士の事、弓馬の業は、生仏、東国のものにて、武士に問聞てかゝせけり。彼生仏が生れつきの声を、今の琵琶法師は学びたる也。
出典 : 兼好法師『徒然草』
この『平家物語』の作者と目される信濃前司行長は、生没年は不詳で、学識の高い貴族であり、信濃の国司も務めますが、後鳥羽院の時代に出家します。
そして、天台座主慈円の庇護のもとに、信濃前司行長が『平家物語』を書き、盲僧の生仏に語らせたとのこと。
此行長入道、平家物語を作りて、生仏といひける盲目に教てかたらせけり(現代語訳 : この行長入道、平家物語を作って、生仏という盲目の者に教えて語らせた。)。
日本大百科全書でも、『平家物語』の作者に関し、次のような記載があります。
作者については、多くの書物にさまざまな伝えがあげられているが、兼好法師の『徒然草』(226段)によると、13世紀の初頭の後鳥羽院のころに、延暦寺の座主慈鎮和尚(慈円)のもとに扶持されていた学才ある遁世者の信濃前司行長と、東国出身で芸能に堪能な盲人生仏なる者が協力しあってつくったとしている。
ただし、『徒然草』の成立は、鎌倉時代の末期で、『平家物語』が制作されたと考えられる時代から100年近くも経過しています。
そのなかで書かれた「作者」というのが、一体どれほど正確か、ということについては疑問視する声もあります。
能楽師の安田登さんも、『平家物語」の作者に関し、『徒然草』に由来する信濃前司行長の名前を紹介しつつも、「実際の成立にはおそらくもっと多くの人が関わっていて、よくわからないというのが正しいところでしょう。」と語っています。
現存する最古の記述であり、有力な説として名前は挙げられるものの、基本的には今もまだ作者不明の状況と言えるでしょう。
以上、『平家物語』の作者でした。