西洋画

印象派の画家一覧

印象派の画家一覧

印象派とは

印象派いんしょうは、または印象主義とは、19世紀後半にフランス絵画を中心に巻き起こった革新的な芸術運動の呼称です。

印象派は、モネやルノワール、ピサロといった、当時パリで活動していた若い画家たちのグループによって確立され、徐々に広がりを見せます。

当初、印象派は、フランスの伝統的な規範や描き方を重んじる美術界から、激しい批判を受けます。

しかし、独立した展覧会「印象派展」(王立アカデミー開催の公式美術展サロンではなく、独自の展覧会で、正式名称は「画家、彫刻家、版画家などによる共同出資会社の第1回展」)を開催し続け、彼らの作品は、次第に支持を集めるようになります。

1874年4月15日、パリ、オペラ座にほど近いカピュシーヌ大通り35番地で「画家、彫刻家、版画家などによる共同出資会社の第一回展」という名のグループ展が開かれた。

この展覧会がその後に続く「印象派展」のスタートでした。当時の美術界の権威サロン(官展)の美意識や審査基準に違和感を覚えていた若い画家たちによって古典的な美術界に新しい風を吹き込みたいとの思いからの行動でした。

出典 : 第一回印象派展|ギャラリーアオキ絵画の話

展覧会は、1870年代から80年代にかけてメンバーが微妙に変わりながら全8回行われ、明確な定義や境界線が決まっているわけではないものの、基本的に、その展覧会の主要メンバーが「印象派の画家」と呼ばれています。

第1回印象派展 カタログ

しばしば印象派の画家の一人としてイメージされるエドゥアール・マネは、印象派展に一度も出品していないことから、正確には印象派のメンバーとは言えません。

ただ、その印象派の発端とも言える作品『草上の昼食』や『オランピア』を発表するなど、のちの若い印象派の画家たちに多大な影響を与えたことから、マネは「印象派の父」と称されています。

このマネの作品は、これまでの常識を覆したもので、描き方も、遠近法がしっかり用いられず、省略されたスケッチのような描き方であったこと、また、女性の裸体を神話的な修飾なく描き、そのモチーフが「娼婦」であったことなどから、激しく批判を受けるスキャンダルとなります。

こうした姿勢も含め、伝統的な価値観に抵抗する若い画家たちに影響を与え、印象派に繋がっていきます。

この「印象派」という名称は、第1回の展示会に出品されたクロード・モネ(マネとモネは、一文字違いで勘違いしやすいですが、当時のフランスの公式美術展のサロンでも、二人を間違える、という珍事件があったようです)の作品『印象・日の出』に由来します

クロード・モネ『印象・日の出』 1872年

この作品が、パリの風刺新聞『ル・シャリヴァリ』で、批評家ルイ・ルロワに皮肉交じりに「印象派の展覧会」という題で取り上げられたことなどがきっかけとなり、「印象派」という言葉が生まれます。

印象かぁー。確かにわしもそう思った。わしも印象を受けたんだから。つまり、その印象が描かれているというわけだなぁー。だが、何という放漫、何といういい加減さだ! この海の絵よりも作りかけの壁紙の方が、まだよく出来ている位だ。

出典 : ルイ・ルロワ「印象派の展覧会」

印象派の作品は完成品ではなく、さらっとスケッチ感覚で「印象」が描かれただけの未熟な作品だ、と捉えられ、決してよい意味で「印象派」と呼ばれたわけではなく、印象派の画家たちも、当初は好んでいたわけではなかったものの、次第に代名詞のように旗印となっていきます。

印象派の絵画の特徴としては、戸外制作、光を描くための筆触分割の技法、また近代の人々の生活を描いた点などが挙げられます。

印象派登場の少し前、19世紀中頃のフランスの美術界では、それまでの神話や宗教、歴史を題材とし、理想を表現しようとするロマン主義や古典主義への反動から、空想に依らず、あるがままに現実を再現する「写実主義」が流行します。

写実主義の代表的な画家としては、クールベやミレー、ドーミエなどが挙げられます。

画像 : ジャン=フランソワ・ミレー『落ち穂拾い』 1857年

その写実主義の影響を受けつつも、若い画家たちによって興った新しい芸術運動として「印象派」が登場し、絵画の価値観を一変させます。

印象派の特徴

革新的とされる印象派の絵画の主な3つの特徴について、簡単に紹介したいと思います。

①屋外の制作

印象派の特徴の一つが、「屋外制作」にあります。

絵の具と言うと、現代ではチューブに入っているのが一般的ですが、18世紀の中頃までは画家が自ら鉱石を粉砕し、油を混ぜ、絵の具を作っていました。

その後、18世紀末頃からは、豚など動物の膀胱を保存袋にして販売されるようになりますが、長期保存ができず、持ち運びも不便だったので、色付けは外では行われません(屋外では下書きのデッサンのみ)でした。

しかし、保存や持ち運びに適したチューブ入り絵の具が、1841年に登場し、工場での大量生産も開始。画家たちが、街の画材屋で絵の具を手に入れることができるようになり、結果、屋外で絵画を完成させることができるようになります。

こうした「近代化」という時代背景もあり、写実主義の一つであるバルビゾン派の画家が、屋外に出て制作を始め、その影響から、印象派の画家たちの屋外制作にも繋がっていきます。

また、同時期に、都市部と郊外を結ぶ鉄道が徐々に広がり、鉄道を使って郊外に写生に出かけるなど、画家たちのフットワークがいっそう軽くなります。

作品のモチーフも、ダンスホールや劇場、カフェやレストラン、鉄道の駅や郊外の行楽地など、近代都市の市民たちの生活を多く描いている、といった特徴があります。

②光のための筆触分割

もう一点、印象派の絵画の特徴的な技法として、「筆触分割ひっしょくぶんかつ」が挙げられます。

筆触分割とは、絵の具を混ぜないで、そのままキャンバスに置いていく、という手法です。

ルネサンス以降の伝統的な描き方では、絵の具は、パレットの上で混ぜ、色を作ってからキャンバスに描きます。

一方、印象派の画家たちは、「絵の具は、混ぜることで発色が悪くなる」ことを考慮し、屋外の繊細な光を捉えるために、チューブから出した絵の具を、短い筆さばきによって、そのままキャンバスに置いていく、という方法を採用します。

後にフェネオンやシニャックのような印象派の理論家たちが強調するように、混合はパレットの上ではなくて網膜の上で行われるのである。

自然を基本的な色に分解し、そのひとつひとつの要素をばらばらに並置して、全体としてまとまった効果をあげるというこの方法が、「筆触分割」にほかならない。

出典 : 高階秀爾『近代絵画史 上』

色の混合は、パレットの上ではなく、網膜の上で行われ、鑑賞者はまばゆい光の輝きを感受します。

ルノワール『ラ・グルヌイエール』 1869年

アルフレッド・シスレー『ヴィルヌーヴ=ラ=ガレンヌの橋』 1872年

印象派の絵画の特徴ある光も、この「筆触分割」という技法によって表現されています。

筆触分割とは筆触分割とは 印象派とは、19世紀後半のフランスで巻き起こった芸術運動で、当時まだ若かったモネやルノワール、シスレーなどが、印象派の代...
③「印象」を描く

写実主義までの絵画は、あくまで対象を忠実に描く客観的な描写が行われていました。

しかし、印象派の絵画は、むしろ主観的な、「印象」を忠実に捉え、表現する、という方向に注力されている、という点も特徴の一つと言えるでしょう。

その背景には、1839年にフランスの画家ダゲールが公式に発表した「写真」の発明も影響しています。

写真の登場によって、肖像画家を筆頭に現実をそのまま写し取る役割が写真に取って代わられ、画家たちは、新しい世界に進んでいくことを求められます。

ある画家たちは写真家となり、一方で、写真にできないことをするしかなくなった画家たちは、写実性以上の新しさを模索し、この動きが「印象」を描くという方向に繋がっていきます。

ちなみに、1874年の第1回印象派展は、写真家のナダールのスタジオで行われています。

第1回印象派展が開かれた、写真家ナダールのスタジオ

印象派と浮世絵

また、印象派の絵画は、日本の浮世絵の影響を強く受けていることでも有名です。

浮世絵は、江戸時代に成立し、発達した、鮮やかな色彩や大胆な構図が特徴の庶民に愛された風俗画です。

代表的な浮世絵師としては、葛飾北斎や歌川広重、菱川師宣といった名前が挙げられます。

葛飾北斎『富嶽三十六景 神奈川沖浪裏』 1831 – 33年頃

こうした日本の浮世絵が、1867年のパリ万博に出品。これは日本が初めて正式に参加した万博で、浮世絵や陶磁器がお披露目され、極東の日本文化が大変珍しがられます。

このパリ万博がきっかけとなり、フランスを中心にヨーロッパやアメリカにまで波及するジャポニスムブームに繋がります。

当時の若い画家たちにも、古典的な西洋絵画の世界とは違う、浮世絵の大胆な構図や色鮮やかさ、自然の描写などが衝撃を与えます。

マネやモネ、セザンヌ、ルノワール、ポスト印象派のゴッホやゴーギャンなどにも、浮世絵は影響を与えます。

エドゥアール・マネ『エミール・ゾラの肖像』 1868年

マネの友人で小説家のゾラの肖像画。ゾラの背景には、マネの『オランピア』とともに浮世絵も描かれています。

この背景の浮世絵は、歌川国明うたがわくにあきの相撲絵『大鳴門灘右ヱ門おおなるとなだえもん』と考えられています。

また、特に影響を受けた画家の一人が、印象派の代表的な画家のモネです。

モネは、葛飾北斎や歌川広重の作風に感化されます。モネが日本趣味の影響を受けたことが伺える作品として、『ラ・ジャポネーズ』があります。

クロード・モネ『ラ・ジャポネーズ』 1876年

これは、妻のカミーユが、日本の着物に、扇を持ち、ポーズをとっている絵です(カミーユは、この作品発表の3年後に、32歳という若さで亡くなります)。

モネの家には、多数の浮世絵が残され、また自宅の庭には、日本風の橋もかけるほどの日本愛好家でした。

フィンセント・ファン・ゴッホも、浮世絵に心酔していたことで知られる画家の一人です。

パリに移住後、近所の画商のギャラリーに常連となり、その店舗に大量にあった浮世絵を見るために足繁く通います。

浮世絵の影響は、ゴッホの絵画『たんギー爺さん』の背景に描かれる絵にも見られます。

フィンセント・ファン・ゴッホ『タンギー爺さん』 1887年

この絵のモデルとなっているタンギー爺さんとは、面倒見がよく、絵画で画材の支払いを認めるなど、貧しい画家たちへの理解も深かった、画材屋件画商のジュリア・フランソワ・タンギーです。

ゴッホが亡くなった際には、葬式に参列した数少ない人物の一人でもあります。

絵の背景には、歌川広重や歌川国貞の作品が描かれています。

ゴッホは、浮世絵の模写も行うなどしながら研究し、その構図や鮮やかを自身の作風に取り入れていきます。

加えて、浮世絵の熱心な収集家でもあり、計477点の浮世絵を所有。コレクターとして行きつけのカフェで浮世絵展を開催するほどでした。

西洋の伝統的な価値観を相対化する意味でも、印象派を含め、19世紀後半のヨーロッパの芸術に対し、日本の浮世絵は重要な役割を果たしたと言えるでしょう。

以上、「印象派」の解説でした。

さて、冒頭で、印象派画家の境界線ははっきり定まっていないということに触れましたが、以下は、一般的に知られる、印象派展に出品している代表的な「印象派(最初に登場するマネ以外)」の画家や、印象派に続く「ポスト印象派」の画家一覧となります。

画家一覧(印象派)

印象派

後期印象派、新印象主義

 

エドゥアール・マネ
1832 1883

マネ 自画像エドゥアール・マネ『自画像』 1878 – 79年

エドゥアール・マネ(1832年 – 1883年)は、19世紀半ばから後半にかけて活躍したフランスの画家です。

伝統的な絵画の形に捉われることのない画風で近代的なパリの情景を描き、新しい潮流を美術界に呼び込みます。

特にセンセーショナルだったのが、1860年代にマネが発表した代表的な作品『草上の昼食』と『オランピア』です。

この二作品は、絵画の世界に大きなスキャンダルを巻き起こし、激しい批判を浴びせられます。

その他、マネの代表作としては、『バルコニー』『鉄道』『フォリー・ベルジェールのバー』などが挙げられます。

印象派展に一度も参加したことがないことから、マネは正式な印象派のメンバーとは言えません。

しかし、印象派の画家に多大な影響を与え、印象派の父、先駆者として美術史に位置付けられています。

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クロード・モネ
18401926

モネ 自画像クロード・モネ『自画像』 1886年

クロード・モネ(1840年 – 1926年)は、印象派を代表するフランスの画家です。

子供の頃から、勉強は不得手だったものの、絵は得意で、カリカチュア(似顔絵)を販売するほどでした。

この頃、風景画家のウジェーヌ・ブーダンと出会い、モネは教えを受けます。

光を繊細に捉えた画風が特徴で、仲間と1874年に開催した第1回印象派展に出品し、酷評された代表作『印象・日の出』(1872年)は、印象派の名前の由来となります。

その他、『睡蓮』『積みわら』『ポプラ並木』の連作など、モネは、刻々と移り変わる一つの風景を捉えようと、同じモティーフで多数の作品を描いたことでも知られています。

印象派展は、第1回から第4回と、第7回に出品しています。

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カミーユ・ピサロ
1830 − 1903

カミーユ・ピサロ『自画像』 1873年

カミーユ・ピサロ(1830年 – 1903年)は、デンマーク植民地時代のセント・トーマス島で生まれたデンマーク系フランス人で、印象派及び新印象派の画家の一人です。

印象派のメンバーのなかで、計8回の印象派展の全てに参加した唯一の画家であり、パリの都市部や近代的な風景ではなく、農村の風景を主に描いた画家として知られています。

ピサロは、クールベやコローといった写実主義の画家の影響を受け、その後、印象派のメンバーとして活躍します。

また、スーラやゴッホ、セザンヌ、ゴーギャンといったポスト印象派の画家たちにも影響を与え、温厚な性格で、後輩画家たちにも慕われました。

ピサロの代表作としては、「エラニーの干草収穫」、「帽子を被った農家の若い娘」、「エルミタージュの丘」などが挙げられます。

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エドガー・ドガ
1834 − 1917

エドガー・ドガ『自画像』 1855年

エドガー・ドガ(1834年 – 1917年)は、バレエの絵が有名なフランスの印象派の画家です。

子供の頃は、銀行家の父に連れられ、色々な美術愛好家のコレクションを見て回るなど、絵画に触れ、中学卒業後に、画家を志望するようになります。

画家アングルの影響を受け、デッサンを重視。形骸化するサロンに不満は持っていたものの、古典的技法を大切にします。

印象派の創設者の一人と言われますが、ドガ自身は、自分のことを印象主義よりも写実主義だと主張し、「印象派」と呼ばれることを嫌っていました。

踊り子や競馬場など、動きのある作品を数多く残し、モネのような明るい世界ではなく、むしろ都市部の暗部を、王道の古典的手法によって描き出した画家です。

代表作としては、『ダンスのレッスン』『踊りの花形(エトワール、又は舞台の踊り子)』『アプサントを飲む人(カフェにて)』などが挙げられます。

ドガは、気難しく皮肉屋の性格ゆえ、仲間たちとの衝突も多く、また生涯独身でもありました。

印象派展は、第7回以外の全てに出品しています。

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アルフレッド・シスレー
1839 − 1899

オーギュスト・ルノワール『アルフレッド・シスレーの肖像画』 1864年

アルフレッド・シスレー(1839年 – 1899年)は、フランスで暮らす裕福なイギリス人夫婦のもとに生まれた印象派の画家の一人です。

18歳のときに、商業を学ぶためにイギリスのロンドンに留学し、イギリスの風景や、ターナー、コンスタブルなどの作品に触れることで、画家を志すようになります。

また、その頃、コローなどバルビゾン派、クールベのような風景画家の作品にも影響を受けます。

その後、シャルル・グレールの画塾に入門。のちに、印象派の仲間となるモネやルノワールと出会います。

シスレーは、印象派の特徴の一つである戸外制作を中心に、数多くの風景画を残しています。

他の印象派の画家たちが、後々印象派的な画風から抜け出し、独自の道を模索していったのに対し、シスレーは、終始一貫して印象派的な絵を描き続けました。

アンリ・マティスがピサロに会った際、「典型的な印象派の画家は誰か」と尋ねると、ピサロは「シスレーだ」と答えたと言います。

印象派展は、第1回から第3回までと、第7回に出品しています。

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ベルト・モリゾ
1841 − 1895

ベルト・モリゾ『自画像』 1885年

ベルト・モリゾ(1841年 – 1895年)は、フランスのブールジェの裕福な家庭に三女として生まれた印象派の画家です。

モリゾは、印象派の中心メンバーの一人で、印象派のなかでも数少ない女性画家です。

芸術に理解のある家庭で、14歳の頃から、姉のエドマとともに絵を本格的に学び始め、20歳の頃に、バルビゾン派の画家のコローに師事します。

その後、画家のファンタン=ラトゥールを介し、エドゥアール・マネと出会い、マネの作品『すみれの花束をつけたベルト・モリゾ』のモデルを務めるなど交流が続き、1874年には、マネの弟のウジェーヌと結婚します。

理解のある夫の支援もあり、画家活動を続けることのできたモリゾは、ほとんど全ての印象派展に参加し、柔らかな筆致で、夫や幼い娘のジュリー、庭の風景など穏やかな日常を描きます。

代表作としては、『窓辺に座る画家の姉』(1869)『ブージヴァルの庭のウジェーヌ・マネと娘』(1881)『ピンクのドレス』(1870)などが挙げられます。

夫の死から3年後、モリゾは、1895年、54歳で風邪をこじらせ亡くなります(参照 : ベルト・モリゾの小さな伝記)。

印象派展に、初回以降、第4回以外の全部で7回に出品しています。

モリゾの作品を見る

 

オーギュスト・ルノワール
1841 − 1919

オーギュスト・ルノワール『白い帽子の自画像』 1910年

ピエール=オーギュスト・ルノワール(1841年 – 1919年)は、フランスの代表的な印象派の画家です。

13歳のときに、磁器工場で陶磁の絵付け職人見習いとなりますが、産業革命の影響で仕事を失い、窓の日除けの装飾やカフェの壁絵で収入を得るようになります。

その後、20歳の頃に、ルノワールは関心のあった画家の道を目指すようになります(参照 : ルノワールの小さな伝記)。

エコール・デ・ボザール(官立美術学校)に入学し、伝統的な美術教育を受けます。

しかし、教育方針に満足できなかったルノワールは、同年、スイス人画家グレール主宰の画塾に通い始めます。

この画塾で、クロード・モネ、アルフレッド・シスレー、フレデリック・バジールら、後の印象派の画家たちと知り合います。

ルノワールの作品は、伝統美を重んじつつ、戸外制作も行うなど、古典的な作風と印象派の作風とが調和する柔らかな画風が特徴的です。

代表作としては、『ムーラン・ド・ラ・ギャレット』『イレーヌ・カーン・ダンヴェルス嬢』『ブージヴァルのダンス』などが挙げられます。

画家人生の後期には、作風も変化し、ポスト印象派の画家として数えられることもあります。

リウマチに苦しみながら、最晩年まで描き続けたルノワール。亡くなった日の朝も、アネモネの絵を描いていたそうです。

印象派展は、第1回、第3回、第7回に出品しています。

ルノワールの作品を見る

 

アルマン・ギヨマン
1841 − 1927

アルマン・ギヨマン『自画像』 1878年

アルマン・ギヨマン(*ギヨーマンと表記されることもある、1841年 − 1927年)は、パリ生まれの印象派の画家です。

庶民の出身ということもあり、ギヨマンについて知られていることはあまり多くはありません。

ギヨマンが15歳のとき、叔父が営む服飾店に勤めながら、夜にはパリ市内のスケッチの学校に通います(参照 : アルマン・ギヨマンの小さな伝記)。

それから、パリ=オルレアン鉄道に転職し、翌年、アカデミー・シュイスで絵画を学び始めます。この自由な気風の画塾で、のちに印象派の画家と呼ばれるようになるカミーユ・ピサロやポール・セザンヌと出会います。

印象派展には、ほとんど出品するほどの常連で、初期は印象主義的な作風だったギヨマンは、その後、ジョルジュ・スーラやシニャック、ゴッホ、ゴーギャンなど新印象派やポスト印象派らの画家たちとの交友も重ね、晩年は、大胆な色彩や装飾性が特徴となります。

その激しい色彩から、「野獣派フォビズム」の先駆者としても知られています。

ギヨマンは、印象派展に関し、第2回と第4回以外は全て出品しています。

ギヨマンの作品を見る

 

メアリー・カサット
1844 − 1926

メアリー・カサット『自画像』 1880年

メアリー・カサット(1844 – 1926)は、アメリカのペンシルベニア州の銀行家の娘として生まれ、フランスで学んだ印象派の女性画家です。

アメリカの美術アカデミーに入学、その後、フランスに渡り、画塾で学びます。

フランス生活で友人になったエドガー・ドガに誘われ、印象派のグループに仲間入りし、カサットも、印象派展に出品するようになります。

カサットは、ドガの影響も色濃く受け、また日本の浮世絵から学ぶことも多く、特に喜多川歌麿の美人画や母子絵から着想を得ます。

画風としては、人物画が多く、少女や親子など、暖かな家族の情景がよく描かれます。

印象派展は、第4〜6回と、第8回に出品しています。

ちなみに、女性の印象派の画家としては、ベルト・モリゾ、メアリー・カサット、それからマリー・ブラックモンが知られています。

カサットの作品を見る

 

ギュスターヴ・カイユボット
1848 − 1894

ギュスターヴ・カイユボット『自画像』 1892年頃

ギュスターヴ・カイユボット(1848 – 1894)は、絵画収集家であり、印象派の画家の一人ですが、あまり有名ではありません。

普仏戦争後に画塾で本格的に絵画を学び、作風としては、写実的な傾向が強く、パリの上流階級の都会的な風景を描きました。

自ら画家として印象派展に出品する一方で、印象派展開催そのものに深く貢献し、また交友関係のあった印象派の作品も購入します。

カイユボットがコレクションしていた印象派の絵画は、遺言で、リュクサンブール美術館へ、その後、ルーヴル美術館へ寄贈してほしいと書かれていましたが、この動きにアカデミズムなどから激しい反対があったことから、ルーブルは全てではなく、一部を受け入れることとなりました。

カイユボットは、近年になって回顧展も開かれるなど、画家として再評価の機運も高まっています。

印象派展は、第2回から5回と、第7回に出品しています。

画家一覧(ポスト印象派、新印象派)

ポスト印象派(または後期印象派)とは、印象派の考え方や手法を批判的に継承しつつ、独自の道を歩み出した画家たちを指す、便宜的な呼び名です。

この「ポスト(post)」とは、フランス語や英語で「〜の後」という意味があり、以前は後期印象派と訳されることもあったものの、「印象派の後期」ではなく、あくまで「印象派の後」なので、「ポスト印象派」と呼ばれることも少なくありません。

ただし、このポスト印象派という名称は、印象派に対する態度によるものであり、各々の画家の共通性は薄く、それぞれの画家の画風は大きく異なっています。

時代的には、1880年代以降と言えるでしょう。

ポスト印象派の代表的な画家としては、フィンセント・ファン・ゴッホポール・ゴーギャンポール・セザンヌなどが挙げられます。

後年、独自の道を歩んだルノワールなども、ポスト印象派として数えられる場合もあります。

また、別の流派として、「新印象派(新印象主義)」も存在します。

新印象派とは、印象派の「筆触分割」という技法を、より科学的に推し進めた「点描画法」を使って作品を描き、また、印象派が失った画面の造形的秩序の回復を目指した、スーラが創設した絵画運動です。

点描画法とは、パレットで絵具を混ぜるのではなく、原色でキャンバス上に小さな点を併置し描く、という技法です。

点描画法によって、遠目で見るとき、光の輝きを損なうことなく明るさが実現できます。

ジョルジュ・スーラやポール・シニャックなどが、新印象主義の代表的な画家として挙げられます。

ポスト印象派や新印象派は、フォビスムや表現主義、キュビスム、未来派といった20世紀美術に影響を与えます。

印象派、ポスト印象派(後期印象派)、新印象派は、それぞれ名前が似ているようで特徴や範囲、代表的な画家に違いがあります。

印象派 : 19世紀後半、モネやピサロ、ルノワールなどが中心となって起こった、光の捉え方や見たままの印象を描くスタイル、近代化が進む時代背景、戸外制作などが特徴のフランスの絵画運動。計8回の印象派展が開催される(1886年が、最後の印象派展)。

ポスト印象派 : 1880年代以降、印象派の考え方や技法を、批判的に継承し、独自の道を歩んでいった画家たちの総称。ゴーギャン、ゴッホ、セザンヌ。

新印象派 : 1880年代以降、印象派の光の捉えるための代表的な技法である筆触分割を、さらに科学的に推し進めた点描画法が特徴。また、造形的秩序の回復も目指す。シニャック、スーラなど。

以下は、ポスト印象派、および新印象派の画家たちです。

 

ポール・セザンヌ
1839 − 1906

ポール・セザンヌ『帽子をかぶった自画像』 1890 − 1894年

ポール・セザンヌ(1839 – 1906)は、当初モネやルノワールとともに印象派のメンバーとして活躍した後、独自の道を歩み始めたことから、ポスト印象派の画家として紹介されることも多いフランスの画家です。

フランスのエクス=アン・プロヴァンスで銀行員の父のもとに生まれ、跡を継ぐために、法科大学に進学。

しかし、父の希望とは裏腹に、セザンヌはデッサン教室に通ったり、小説家のゾラとの交流のなかで、画家を志すようになります。

その後、パリに行き、絵を学ぶも、都会暮らしが合わずに一年ほどで帰郷。後継として銀行で働くものの、身が入らず、見かねた父が、パトロンとなることを約束。セザンヌは、再びパリに戻り、画家を目指して歩み出します。

印象派と呼ばれる画家たちと出会い、第1回印象派展に出品。ただし、途中から、独自の道に進み始めます。

セザンヌは、その幾何学的な画風によってキュビスムなど20世紀美術に多大な影響を与えたことから、「近代絵画の父」と称されることもあります。

代表作としては、故郷で南フランスの町エクス=アン=プロヴァンスにそびえ立っているサント・ヴィクトワール山の絵や、りんごの静物画などが挙げられます。

印象派展は、第1回と第3回に出品し、その後の印象派展への出品はありません。

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フィンセント・ファン・ゴッホ
1853 − 1890

フィンセント・ファン・ゴッホ『グレーのフェルト帽の自画像』 1887年

フィンセント・ファン・ゴッホ(1853 – 1890)は、オランダのポスト印象派の画家です。

オランダ南部の牧師の息子として生まれ、この「フィンセント」という名は、高名な牧師だった祖父と、自身が生まれる一年前に死産している兄弟の名前に由来します(二人とも「フィンセント」という名でした)。

ゴッホは、1869年から画商の会社グーピル商会で働き、76年に解雇、それから教師や書店など職を転々とし、77年に牧師を志すようになります。

ベルギーで伝道活動を行なったのち、1880年、ゴッホは画家を目指すことを決意。オランダに帰郷し、数年の修行のあと、86年、パリに渡ります。

オランダ時代には、暗い色調の作品が多かったゴッホですが、画商を営んでいた弟のテオを頼りにパリに移住以降は、印象派や日本の浮世絵にも感化され、鮮やかな色彩や、平板的な絵、大胆な構図を取り入れるなど、いわゆる「ゴッホの絵」になります。

ゴッホの作品の多くは、フランス居住時代に制作され、大胆な色使いや情動的な画風によって、フォビズムなど20世紀美術にも多大な影響を残します。

ゴッホの代表作としては、『夜のカフェテラス』『ひまわり』『星月夜』『糸杉と星の見える道』などがあります。

ちょうど最後の印象派展が行われる少し前にパリに移住してきたので、ゴッホ自身は、印象派展に出品はしていません。

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ポール・ゴーギャン
1848 − 1903

ポール・ゴーギャン『帽子をかぶった自画像』 1893 – 1894年

ポール・ゴーギャン(1848 – 1903)は、フランスのポスト印象派の画家で、ゴーガンと表記されることもあります。

もともと、パリ証券取引所で株式仲介人として働き、絵を描くこととは縁がなかったゴーギャン。

実業家として成功し、1873年にはデンマーク人女性と結婚。その頃から、暇なときに絵を描くようになり、日曜画家のようにして活動します。

ピサロとの出会いがきっかけで、印象派の画家たちが集まるカフェで画家たちと交流。やがてサロンで入選するほどの腕前になります。

その後、本格的に画家として活動を開始し、ゴッホとの共同生活や、タヒチ滞在など、波乱万丈の経験を経ながら、独自の画風を確立していきます。

ゴーギャンを中心とした芸術運動は、象徴主義的な主題と、平坦な色面や太い輪郭線の使用を特徴とした「総合主義」と称され、ナビ派に影響を与えることとなります。

ゴーギャンの代表作としては、『我々はどこから来たのか,我々は何者か,我々はどこへ行くのか』『ひまわりを描くフィンセント・ファン・ゴッホ』などが挙げられます。

印象派展は、第4回から8回までに出品しています。

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ジョルジュ・スーラ
1859 − 1891

ジョルジュ・スーラ 肖像写真

ジョルジュ・スーラ(1859 – 1891)は、新印象派の創設者、点描画の創始者として知られるフランスの画家です。

パリの裕福な家庭に生まれ育ったスーラは、15歳のときに絵画学校で学んだのち、国立の美術学校に入ります。

しかし、まもなく退学。独自に研究しながら、印象派の技法である「筆触分割」を、より科学的に追求し、「点描画法」という技法に辿り着きます。

スーラの代表作としては、点描でパリ近郊のセーヌ川中洲の夏の様子を描いた大作『グランド・ジャット島の日曜日の午後』(1884 – 1886)が挙げられます。

この代表作のサイズは、縦が2メートル、横が3メートルと大きな作品となっています。

スーラは、最後の印象派展となる1886年の第8回印象派展に参加しています。

また、彼は31歳という若さで亡くなりますが、死因ははっきりしていません。肺炎や感染性の狭心症、ジフテリアなどが原因として考えられています。

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ポール・シニャック
1863 − 1935

ジョルジュ・スーラ『ポール・シニャックの肖像』 1890年

ポール・シニャック(1863 – 1935)は、スーラとともに新印象主義を代表するフランスの画家です。

もともとは建築を学んでいたものの、若い頃に絵画に転向し、独学で画家を目指します。

印象派の画家モネに傾倒し、その後、点描画法の創始者であるスーラの影響を受け、点描画の作品を描くようになります。

師匠であり、友人でもあったスーラが若くして亡くなり、以降は、スーラの技法を引き継いだシニャックが、点描画を発展させながら後世に広めます。

シニャックの代表作としては、『朝食』『七色に彩られた尺度と角度、色調と色相のリズミカルな背景のフェリックス・フェネオンの肖像』『赤い浮標』などがあります。

印象派展には、スーラと同様、1886年開催の最後の第8回印象派展に出品しています。

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アンリ・マルタン
1860 − 1943

アンリ・マルタン『自画像』 1919年

アンリ・マルタン(1860 – 1943)は、フランスの新印象派の画家です。

家具職人の家に生まれ、幼い頃から絵が好きだったマルタンは、美術学校に進んで絵を学びます。

サロンで賞を獲得、奨学金によってイタリアを旅し、イタリアのルネサンス期の絵画に影響を受け、また、新印象派の画家たちと交流も深めます。

印象派展には一度も出品していませんが、豊かな色彩や新印象派の点描手法を駆使し、親交のあったアンリ・ル・シダネルとともに、「最後の印象派」とも称されています。

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アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック
1864年 − 1901年

アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック『鏡の前の自画像』 1882年

アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック(1864 – 1901)は、古い貴族の家系に生まれたフランスの画家、版画家、イラストレーターで、ポスト印象派の一人として数えられます。

ロートレックは、絵画だけでなく、ポスターでも有名です。

もともと体が弱く、10代の頃の脚の骨折が原因となり、脚の発育が止まったことから、胴体だけが正常に発育し、身長は150cmほどでした。

17歳のときに画家を志し、動物画家のルネ・プランストーに師事。その後も、画塾で古典的技法を学びます。

旧態然としたアカデミーの世界と決別し、印象派など新しい芸術の影響も受けながら、ロートレックが注目を浴びるきっかけとなったのが、ダンスホール「ムーラン・ルージュ」から依頼され、描いた、1891年制作のポスター『ムーラン・ルージュ、ラ・グーリュ』です。

ロートレックは、身体的障害を持っていた自身の差別経験から、娼婦や踊り子のような夜の世界の女性たちに共感し、夜の街でデカダンな生活を送りながら、彼女たちの姿を愛情を込めて描きます。

また、ゴッホやゴーギャンとも親交があり、ロートレックは、『ゴッホの肖像』も描いています。

晩年は、退廃的な生活が祟り、アルコール依存症や梅毒で苦しみ、1901年に36歳という若さで亡くなります。

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