ゴッホと糸杉
フィンセント・ファン・ゴッホは、1853年に生まれ、1890年に37歳で亡くなるポスト印象派の画家です。
ゴッホの主要作品の多くは、1886年以降のフランス居住時代に集中し、大胆な色使いや感情的な表現がゴッホの作品の特徴で、フォービスムなど20世紀美術にも大きな影響を残します。
ゴッホが画家として取り憑かれたモチーフでは「ひまわり」の花が有名ですが、ひまわりの後に、熱心に描いたものが「糸杉」です。
フィンセント・ファン・ゴッホ『ひまわり』 1888年
糸杉とは、ヒノキ科イトスギ属の総称で、別名サイプレス(Cypress)、セイヨウヒノキと言います。糸杉は、世界中で、公園の木や街路樹、また綺麗な円錐形になることからクリスマスツリーとしても重用されています。日本は原産地ではありませんが、数種が栽培されています。
晩年のゴッホは、この糸杉をモチーフにした絵を何枚も描いています。
糸杉の絵が描かれた年代は、主に1889年から1890年頃(ゴッホの死没年は1890年)、ゴッホがフランスのサン=レミの精神病院に入院していた時期です。
フィンセント・ファン・ゴッホ『星月夜』 1889年
フィンセント・ファン・ゴッホ『糸杉のある緑の麦畑』 1889年
フィンセント・ファン・ゴッホ『糸杉』 1889年
フィンセント・ファン・ゴッホ『糸杉のある麦畑』 1889年
フィンセント・ファン・ゴッホ『糸杉のある麦畑』 1889年
フィンセント・ファン・ゴッホ『糸杉のある麦畑』 1889年
フィンセント・ファン・ゴッホ『糸杉と二人の女性』 1890年
フィンセント・ファン・ゴッホ『夜のプロヴァンスの田舎道』 1890年
なぜ、晩年のゴッホは、これほどまでに糸杉にこだわり、繰り返し描いたのでしょう。糸杉には、一体どんな意味が込められていたのでしょうか。
ヨーロッパでは、糸杉は、死や喪の象徴として扱われ、花言葉も「死・哀悼・絶望死」であり、墓地に植えられることも多い木です。また、キリストが磔にあった十字架は、この糸杉の木から作られていた、という伝説もあります。
一方、樹齢が極めて長いことから、糸杉は「生命」や「豊穣」のシンボルでもあり、古代エジプトや古代ローマでは、神聖な木として崇拝されていたことでも知られています。
ゴッホが、自分自身の死期を予感し、死を象徴する糸杉に心が惹きつけられたのかどうかはわかりませんが、糸杉の放つ存在感に魅了されたことは間違いないでしょう。
ゴッホは、弟のテオに、彼が糸杉にどれだけ入れ込んでいたかがわかる、次のような手紙を送っています。
もうずっと糸杉のことで頭がいっぱいだ。ひまわりの絵のように何とかものにしてみたいと思う。これまで誰も、糸杉を僕のように描いたことがないのが驚きだ。その輪郭や比率などはエジプトのオベリスクのように美しい。それに緑色のすばらしさは格別だ。
1889年6月25日、弟テオへの手紙(サン=レミにて)
自然を前にすると、気を失うまでに感情が昂ったり、自分の無力さを感じる、と言っていたゴッホは、「ひまわりの絵のように」糸杉に強く惹かれ、その外観は、エジプトのオベリスクのように美しく、色の素晴らしさも格別だ、と綴っています。
この手紙でゴッホが触れているオベリスクとは、古代エジプトの太陽神信仰に基づく記念碑のことで、名前は、ギリシア語で「串」を意味する「オベリスコス(obeliskos)」に由来します。
オベリスク
ゴッホは、糸杉の持っている象徴性よりも、まず造形の美しさや色味に強く惹きつけられたようです。
ただ、糸杉に取り憑かれたのは、ゴッホが亡くなる前年の1889年で、彼が精神を患い、サン・レミの療養院に入院していた時期です。発作の恐怖に怯えながら、出会ったモチーフが糸杉だったことを考えると、古くから人々が糸杉に込めてきた死や命、祈りとどこか通じるものがあったのかもしれません。