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音楽

セカオワ『illusion』歌詞の意味と解釈

セカオワ『illusion』歌詞の意味と解釈

邦楽ロックバンドSEKAI NO OWARI世界の終わり、通称セカオワの『illusion』という曲は、2012年リリースのアルバム『ENTERTAINMENT』に収録されています。

セカオワの楽曲のなかには、どことなく暗い曲調で、社会の暗部を鋭くえぐるような歌詞の曲もあり、その一つとして、この『illusion』も挙げられます。

曲のタイトルである『illusion』の読み方は「イリュージョン」で、日本語訳すると、「幻想、錯覚、幻覚」といった意味になります。

名前の通り、歌詞の内容も、誰かの作っている「幻想」や「幻覚」といったある種の人為的な世界と「現実」の関係性をテーマに描かれ、作詞はボーカルのFukaseさん、作曲はFukaseさんとSaoriさんが担当しています。

以下、セカオワの『illusion』の歌詞の解釈を紹介したいと思います。

まず、『illusion』の歌詞に関し、SEKAI NO OWARIのインタビューでは、「過激、というわけではないですけれど、『illusion』の歌詞は今の時代に鋭く斬り込んでいて、いろいろ考えさせられました」というコメントに、Fukaseさんが次のように答えています。

あぁ、そうですね……。この歌は、僕より下の世代に向けて歌っているんですけれど。歌詞というよりは、論文みたいな感じで書いています。かなり強い気持ちで書きました、この作品は。

出典 : SEKAI NO OWARI|interview

歌詞というより、論文に近い形で、若者たちに向け、かなり強い気持ちで書いたという『illusion』。確かに、歌詞は論理的に構成され、曲を通して、今の人々にとって「現実とは」ということが突きつけられていると言ってもいいかもしれません。

冒頭、「命の並んだ午前零時のスーパーマーケット」で、これから食べる命を選ぶ、「TVで放送される爆弾が降る民族紛争」は、音声も映像も調整された戦争、と歌われます。

この二つに共通することは、生々しい現実ではなく、誰かによって加工されたものを、「真実」だと思って受け取っている、ということが言えるでしょう。

テレビで流れるニュース一つとっても、そのニュースを取り上げた「誰か」の意思が存在します。ニュースとして取り上げた部分だけが、この世界の現実で、取り上げられないことは、まるで存在しないかのようになっている。

あるニュースを「取り上げた」ことにも、誰かの意思があり、また、あるニュースを「取り上げない」ことにも、誰かの意思があるかもしれません(事例として言えば、テレビのスポンサー企業にとってマイナスになるような話題は避ける、ということもありうるでしょう)。

加えて、ニュースなどで使われている映像を、どのように見せるか、どの角度から撮るか、映像の加工や音楽は、どういった演出をしようか、といった点にも製作者の狙いが込められています。

日々、誰かによって選択され、加工された世界を、“現実”だと思い込まされている。戦争に関して言えば、各国のプロパガンダも含まれているでしょう。たとえば、「ナイラ証言」や、「油まみれの水鳥」などが有名な戦争プロパガンダとして挙げられます。

湾岸戦争はミサイル攻撃が初めて生中継で伝えられ、「劇場型の戦争」と呼ばれました、しかし、流される映像は都合のいい部分だけを切り取ったもので事実が歪められていました。戦争の最初の犠牲者は「真実」だと言われます。

湾岸戦争でも多くのフェイクニュースが流されました。その最たるものが「油まみれ水鳥」です。

アメリカ軍は「イラク軍が故意に破壊した石油施設から流れ出た重油によって身動きが取れなくなった」と説明し、イラクの野蛮な行為の象徴として世界に映像と写真が流されましたが、戦争後重油はアメリカ軍の攻撃で流出したものと判明しました。

出典 : 湾岸戦争から30年 揺らぐ世界秩序と戦争の教訓|NHK

このように一見すると真実として提供されることも、誰かが意図的に選択し、あるいは加工した“現実”(仮に情報としては正しかったとしても、様々な手法で色付けがされているかもしれない)であり、こうした事象を、「機械仕掛けの“僕らの真実”」と歌っているのでしょう。

そして、『illusion』のサビでは、次のように歌われます。

僕たちが見ている世界は
加工、調整、再現、処理された世界

だから貴方が見ている
その世界だけがすべてではないと
皆だってそう思わないかい?

出典 : SEKAI NO OWARI『illusion』

僕たちが見ている世界は、誰かが作った現実であり、幻想や虚構と言ってもいいかもしれない。だから、この世界だけが全てではない、もっと違った見え方もできるかもしれないし、この枠組みの外側の世界もあるかもしれない。気づかぬうちに植えつけられている“常識”さえも、誰かの意図的に創作された幻想かもしれない。

このサビの部分の歌詞が、『illusion』でもっとも伝えたいメッセージでしょう。

2番でも、むき出しの現実や体感ではなく、処理された世界を現実だと思い込み、その具体的な例として、コンピュータの世界の無限の宇宙のなかで情報を得ることで、「もうすべてを知っている」と錯覚する、ということが歌われます。

様々な世界が詰め込まれたインターネットの世界で「知る」ことによって、私は全て知っている、と錯覚する。処理された現実illusionに囲まれ、あるいは、便利さによって自動化や情報化が進むほど、現実感が希薄になり、生きているという実感がなくなっていく。

この辺りの「現実感の希薄」というのは、実感としてもわかるのではないでしょうか。

“現実”とは何か

そのあとの一節、最後のサビに繋がる前の歌詞は、少し解釈が難しいかもしれません。

僕の知っている「現実」がどうか嘘でありますようにと
神様の「形」の「人形」に祈るんだ

出典 : SEKAI NO OWARI『illusion』

この「僕の知っている“現実”」とは、誰かによって加工し、処理された世界のことでしょう。

その“現実”が、どうか嘘でありますように、と思う。

実際には、その“現実”は、幻想や虚構も混じった演出された世界かもしれないものの、そのillusionの世界が、“僕”にとって切実な現実として捉えられ、その悲惨さゆえなのか、それとも現実感の希薄さから抜け出したいからなのか、「嘘でありますように」と祈ります。

そして、その祈りを向ける対象が、「神様の“形”の“人形”」です。

この部分は、神様という存在も、誰かによって意図し、創作されたillusionなのだ、という意味かもしれませんし、あるいは、この世界は虚構なのではないかと信じられなくなった結果、神様の存在性も揺らぎ、「神様の形の人形」としか思えなくなっている状態を描いたのかもしれません。

この歌には、テクノロジーの発達が進むほど、ますます“現実”とは何か、ということが操作され、分からなくなっていく世界で、今この世界が真実かどうか、自分が見ているこの世界だけが全てではないという可能性も含め、疑いを持って眺めてほしい、という想いが込められているのではないでしょうか。

以上、SEAKI NO OWARI(セカオワ)『illusion』の歌詞の意味と解釈でした。