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日本の画家

竹久夢二〜たまき、彦乃、お葉という三人の女性と恋愛の名言〜

竹久夢二〜たまき、彦乃、お葉という三人の女性と恋愛の名言〜

竹久夢二

薄幸で憂いを帯びた美人画や、叙情的な詩、装丁やデザインの世界などで活躍した大正ロマンを代表する画家・詩人の竹久夢二。

夢二は岡山県で1884年(明治17年)に生まれ、1934年(昭和9年)に49歳で亡くなります。死因は結核でした。

父親は造り酒屋を営み、夢二は次男でしたが、長男が幼くして亡くなっているので、実質長男扱いであり、姉の松香、妹の栄がいます。

竹久夢二という名前はペンネームで、本名は竹久茂次郎たけひさもじろうと言います。ペンネームは、洋画家の藤島武二に由来し、この夢二という名前は藤島武二への憧れから名付けられます。

夢二は、本名である茂次郎(「へのへのもへじ」というあだ名でもあった)という名前が百姓臭くて好きではなかったことから、東京に出て以降ほとんど口にしなかったそうです。

藤島武二『芳恵』(お葉がモデル) 1926年

竹久夢二の画風と言えば、もの寂しげで儚い病んだような女性の絵が特徴的で、「夢二式美人」と呼ばれ、代表作としては、『黒船屋』『五月之朝』『青山河』などが挙げられます。

竹久夢二『黒船屋』 1919年

竹久夢二の有名な絵として知られる『黒船屋』は、黒猫を抱えた黄色い着物を着た美しい女性が、「黒船屋」と記されたひつに座り、物憂げな表情を浮かべている絵です。猫は、不倫の恋をとりもつという意味もあるようで恋多き夢二らしいモチーフとなっています。

この『黒船屋』のモデルの女性は諸説あり、もともと人気のモデルで当時夢二と恋愛関係にあったお葉という説と、父の反対もあったゆえ密かな恋を育み、若くして病死した(描いているときは入院中で会えなかった)彦乃という女性が描かれていたのではないかという説があります。

後述しますが、絵の制作時、実際にモデルになっていたのはお葉であったものの、夢二は彦乃の影を心に残しながら描いたのではないかと言われ、このときお葉もたいそう嫉妬心に駆られたそうです。

ちなみに、『黒船屋』の元になった絵は、オランダ出身のエコール・ド・パリの画家キース・ヴァン・ドンゲンが描く『黒猫を抱く女』と考えられています。

キース・ヴァン・ドンゲン『黒猫を抱く女』 1908年

この作品は、作者が31歳のときの絵で、モデルはモンマルトル近くのバー「黒猫」のマダムです。

竹久夢二『五月乃朝』 1932年

他に、代表作の『五月乃朝』は、竹久夢二にとって晩年、ちょうどアメリカに外遊中の作品で、モデルはアメリカ人女性です。

夢二は、アメリカから出発する際に、この『五月乃朝』をお世話になった現地在住の邦人ジャーナリストに贈ったそうです(参照 : 竹久夢二の五月の朝)。

こういった竹久夢二特有の「夢二式美人」の画風は、美術学校に通うなどして身につけたものではなく、様々な絵を観ながら独学で培い、自身の個性を伸ばしていくことによって築き上げていきました。

竹久夢二『雪の夜の伝説』 1926年

また、竹久夢二を語る上で不可欠な要素が「恋愛」です。

恋多き画家として知られる竹久夢二、その恋人として、特に有名な三人の女性が、たまき、彦乃、お葉です。

唯一の妻であり、最初の女性たまき

夢二の唯一の妻、岸たまき

竹久夢二の初恋と言っていい相手であり、唯一戸籍に入った妻として知られる女性が、岸たまきです。

画業に専念するために早稲田実業学校を中退した夢二は、早稲田大学近くの絵葉書店「つるや」を営む二歳年上の未亡人たまきと出会い、その店で、夢二が、人気だった野球の早慶戦の絵葉書を描くからその絵を売るように、とたまきに助言することから関係が深まり、まもなく二人は結ばれます。

岸たまきは、1882年(明治15年)に生まれ、1945年(昭和20年)に亡くなる石川県金沢市出身の女性で、夢二の絵のモデルでもあり、たまきを描いた美人画によって夢二は画風を確立し、人気画家の仲間入りを果たします。

夢二とたまきは結婚したものの、喧嘩は絶えず、結婚から二年ほどして、性格の不一致などによって離婚。しかし、二人の縁は続き、同居と別居を繰り返しながら、結婚期間中も含め、三人の子供を授かります。子供は、長男の虹之助、次男の不二彦、三男の草一という三兄弟です。

また、1914年(大正3年)には、たまきが、夢二デザインの小間物を扱う「港屋絵草紙店」の店主となります。港屋は、夢二が、たまきと子供たちのために開店した店でした。

夢二ファンも集まり、店は大評判となったものの、夢二は忙しく、港屋の夢二グッズが間に合わないこともあり、苛々していたたまき。あるとき、港屋に出入りする若い画家志望の東郷青児と深い仲になっていると噂になり、その話に嫉妬で怒り狂った夢二が、旅先で、たまきを海岸に呼び出すと、東郷青児との関係を詰問します。

しらを切るたまきに対し、「お前を殺して俺も死ぬ」と激昂した夢二が短刀で刺し、腕や顔に傷を負ったたまきが血だらけになる、という事件も勃発。ただし、この事件の詳しい真相は闇のなかとなっています。

その後、夢二は新しい恋の相手として、若い画学生の彦乃と出会います。彦乃は、夢二が生涯でもっとも愛した女性と言われています。

たまきとは、驚くような刃傷事件があったあとでも関係は続くのですが、東郷青児とのスキャンダルや事件に加え、彦乃の登場によって決定的な別れに発展。たまきは、夢二のもとを去り、繁盛していた港屋も閉じられることとなります。

永遠に忘れられない最愛の人彦乃

笹井彦乃

笠井彦乃は、山梨県南巨摩郡出身で、1896年(明治29年)生まれ。彦乃は、港屋に通う夢二ファンで、その当時、たまきから日本画の手ほどきを受けていた19歳の画学生でした。

美しく若い少女だった彦乃は、港屋の開店から一年ほど経った20歳の頃に、当時32歳だった夢二と恋仲になります。

しかし、日本橋で紙問屋を営んでいた彦乃の父は、二人の関係に断固として反対します。彦乃に許嫁がいること、夢二にすでに二人の子供がいること、さらにその頃離婚していたたまきも夢二との三人目の子供を宿して身重であったこと、彦乃と年齢差があることなど、反対の理由は歴然としていました。

夢二は、密かに彦乃との恋を育みます。と言うのも、父親の反対だけでなく、離婚後も同居と別居を繰り返しながら縁の続いていたたまきが嫉妬心を抱き、二人の関係に干渉を行ってきたことなどもあり、「京都に行こう」と二人は駆け落ち同然の手段に出ます。

このことにたまきは怒り狂い、港屋を閉じ、子供たちも散り散りに、夢二とは決定的な別れとなります。

一足先に京都に出た夢二は、一人で送られてきた7歳の不二彦と一緒に彦乃を待ち、京都絵画専門学校入学を条件に彦乃がようやく訪れると、夢二、彦乃、不二彦の三人暮らしが始まります。

怒った彦乃の父が愛娘を連れ戻そうと目論むなかで、夢二たちは逃げるように旅から旅へと各地を移り住み、道中ではその旅費のために画展も開きます。

しかし、九州の別府の旅路で彦乃は結核を患い、その地の病院に入院。病状が芳しくなく、京都の東山の病院に移ると、父親が突如見舞いに訪れ、東京に連れ戻されることになります。1918年(大正7年)、彦乃は、東京のお茶の水順天堂医院に入院します。

夢二も追って東京に向かうも、父親から面会を拒絶。二人は手紙のやりとりをします。手紙では、お互いを「山」と「河」と隠語で呼び合っていました。彦乃は「山」で、夢二に対し、「河さま」と記します。

残念ながら、彦乃は、入院から一年ほどの1920年(大正9年)一月に、わずか25歳の若さで亡くなります。夢二は、とうとう彦乃と会うことが叶いませんでした。

彦乃は、竹久夢二にとってもっとも愛した女性であり、夢二が死の直前まで薬指にさしていたプラチナの指輪には、「ゆめ35しの25」という文字も彫られていました。

この「しの25」とは、25歳で死んだ彦乃のことを意味し、「ゆめ35」は、夢二のことです。ただ、当時の夢二の年齢は37歳。それでは、一体なぜ「ゆめ35」なのでしょうか。

一説には、夢二が彦乃と最後に会えたのが35歳のときで、夢二にとっては、このときが彦乃との最後の別れのときであり、彼の心が死んでしまった年齢という意味を込めていたのではないか、と言われています。

なつかしき
娘とばかり思ひしを
いつか哀しき恋人となる

これは入院中の彦乃を想いながら夢二が詠んだ恋の歌で、彦乃に捧げた歌集『山へよする』に収録されています。

魅惑的な少女、お葉との出会いと別れ

お葉

竹久夢二の恋人として知られる三人目の女性として、妖しさと儚さをたたえた若いモデルのお葉がいます。

お葉との出会いは、彦乃が入院し、父に引き裂かれて彦乃と会えずに夢二が沈んでいた頃のことです。お葉は、本名を佐々木カネヨと言い、竹久夢二が師と仰いでいた藤島武二のモデルでした。

お葉は、秋田出身の1904年(明治37年)生まれで、夢二と出会ったとき、夢二は36歳、お葉はまだ16歳ほどでしたが、藤島武二のモデルだけでなく、責め絵の大家であった伊藤晴雨のお気に入りのモデルでもあり、さらに若い頃から、激しい性風俗画のモデルをこなしていた退廃的で儚くも色気のある少女でした。

余談ですが、このお葉に関しては、川端康成が、竹久夢二の家を訪れた際に、夢二は不在だったもののそのとき家にいたお葉を見て、夢二の絵そのままであったことに驚いたと随筆『末期の眼』に書いています。

女の人が鏡の前に座っていた。その姿が全く夢二氏の絵そのままなので、私は自分の眼を疑った。やがて立ち上って来て、玄関の障子につかまりながら見送った。その立居振舞、一挙手一投足が、夢二氏の絵から抜け出したとは、このことなので、私は不思議ともなんとも言葉を失ったほどだった。……夢二氏が女の体に自分の絵を完全に描いたのである。芸術の勝利であろうが、またなにかへの敗北のようにも感じられる。

出典 : 川端康成『川端康成随筆集』

さて、彦乃との一件があり、もう恋はしない、と誓った夢二だったものの、お葉との関係は深まり、恋仲というだけでなく、魅力的な専属モデルとしても夢二の創作意欲を掻き立てていくのでした。

ただ、大人になりきれなかった夢二と、まだ幼く駄々っ子で甘えん坊でもあったお葉は、喧嘩も多い間柄(お葉は夢二を「パパ」と呼びます)で、お葉がよく泣いては藤島武二の家に駆け込んだと言います。

お葉の過去や自虐的であり小悪魔的な性格、アイドル視するファンたちのことを思うと、夢二は嫉妬や妄想に苦しみ喘ぐものの、二人の関係は続きます。

その後、夢二とお葉は、別れや復縁を繰り返しながらも結婚することはなく、二人のあいだに与太郎という名の子供が生まれたものの急死。死産だったという話もありますが、この辺りの詳細は分かっていません。

夢二とお葉

1923年(大正12年)の関東大震災では、震災当時、渋谷宇田川町の自宅にいた夢二とお葉。家屋についてはそれほどの被害はなかったのですが、その頃「どんたく図案社」という本の出版やデザインを手がける企業を仲間と立ち上げようとしていたものの、この震災によって頓挫。夢二にとって大きな挫折となります。

さらに、お葉の願いから一緒に住む家を建てるも、完成直前でお葉が突如家出。「もう二度と帰らないでしょう。心配しないで。さようなら。お葉」と書き置きがあり、まだ21歳のお葉は、隣家であった歌人の西出朝風のところの若い書生と姿を消します。駆け落ちでした。

先の『黒船屋』の絵のモデルも、お葉が務めはしたものの、描かれた女性が彦乃に似ていると感じ、また、新しい家の名前として「少年山荘」または「山帰来荘」と夢二は名付け、この「山帰来」は、「山」と呼んでいた彦乃を偲んで付けたことから、お葉には激しい嫉妬心が渦巻き、こうした背景も、お葉の家出の原因の一つだったのかもしれません。

ところが、家出したお葉が、三ヶ月後、突然戻ってきます。お葉の駆け落ちに関し、夢二は仕方なく飲み込み、また夢二、お葉、不二彦、そして実家のある九州の八幡に預けられていた長男の虹之助を呼び、四人で暮らすことになります。この家には、芸術家やファンの来訪でいつも賑やかだったそうです。

しかし、この穏やかな生活も、長くは続きません。

お葉が病気がちで虚ろになり、ノイローゼ気味になります。その背後には、新進の小説家で、夢二が装丁を引き受けた関係の山田順子ゆきこという新しい女性の影もありました。順子は当時35歳、夢二は手紙などで彼女のことを「雪子」「お雪」と記し、可愛がります。

結局、夢二とお葉、そして順子のあいだの三角関係は、お葉の駆け落ちの相手だった書生の自殺未遂事件も絡んで世間に大スキャンダルとして広がり、お葉も、そして順子も、夢二のもとから去っていきます。

最初のほうで掲載した藤島武二の『芳恵』という絵は、夢二のもとを去ったあと、お葉がモデルを務めて描かれた作品でした。

また、夢二はお葉と完全に関係が切れたわけではなく、ときおり密会を重ねていたそうです。

ただし、スキャンダル騒動によって人気もがた落ちとなった夢二は、仕事も減り、人も離れ、経済的にも厳しい日々を過ごします。

それでも夢二のもとに集まってくる夢二ファンの若い女性と恋をし、嫉妬し、別れもありながら、やがては過去の恋を一切捨て、新しい仕事に取り掛かり、その後海外に旅に出ます。アメリカ、ヨーロッパの地を踏み、その心身の疲労ゆえ持病の結核も次第に進行。帰国後、体調が悪化した夢二は、富士見高原療養所に入院。

すっかり弱り果てた夢二は、これまで深い関係だった女性たちも誰一人見舞いに来ることはなく、病院の医師や看護師ら数人に看取られ、49歳で亡くなります。

息を引き取る直前、最期の言葉は、かすかな声で言った「ありがとう」でした。

ちなみに、後日談として、夢二の死から半年ほど経ったある日、この病院に一人の女性が訪れ、それは初恋の人であり妻であったたまきでした。

たまきは夢二と決別したあと、自分の生活を築き上げ、そのときの暮らしや周囲への気遣いもあってか、死の知らせを聞いてもすぐには駆けつけることができなかったものの、こうして病院を訪れると、夢二がお世話になったことへの感謝を告げ、お礼のためにと病院の仕事などを手伝ったと伝えられています。

富士見高原療養所(旧富士見高原療養所資料館より)

夢二の恋愛にまつわる名言集

女性に、そして恋愛のなかで生き、描き、死んでいった画家であり詩人の竹久夢二。その竹久夢二の恋愛に関する名言を、日記や手紙、作品などから紹介したいと思います。

ふとしたはずみに
あの子のうつり香が
鼻について消えない。

はやく仕事をすまして
逢いにゆきたい。

『風のふく日』

ただ黙っていても思いやり、
自分のすきなようにしていても
二人ともの幸福になり
満足が得られるような
自由な仲でありたい。

日記より 1915年

話したいことよりも何よりも、
ただ逢うために逢いたい。

彦乃への手紙  1916年

ほんとに
何もかも忘れて愛したい。
こんなに愛することを
二人とも手を広げて
願っているのだ。

ほんとに愛したい、愛したい。
おぼれるほど。

日記より 1917年

苦しい時にも嬉しい時にも
人はその恋の経験を
他人に話すことを好むものだが、
決して経験を
そのままには話せないものだ、
ずっとあっさりか、
ずっと誇張してか ──

『ある画家の手記より』

いっしょに過ごすとして12時間ある。
話をするには十分な時間だ。
しかしだまって抱き合っているには
短い時間だ。

日記より 1929年

二人をば
ひとつにしたと思うたは
つい悲しみの時ばかり。

『小曲七章』

人の肉体の一つが死んでも愛は残る。

日記より 1920年

うかうかと恋のために
恋をしていた時分の、
夢のかずかずは
おおかた忘れてしまったが、
それでも遠い記憶のなかに、
うぶな心でふれあったものだけは、
忘れられずにいた。
それがいまの孤独な静寂な生活の
折々に思い出されて、
かえって寂しくするという。

『相聞自賛』

以上、竹久夢二にまつわる、たまき、彦乃、お葉という三人の女性と恋愛の名言でした。